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ふたりだけの時間(拓珠)

すっかり雪が積もった神社の雪かきもある程度片付き、背中を思い切り伸ばしていると後ろから頭をチョップされた。

「・・・拓磨?」
「ん、お前は俺が来るの待てなかったのか?」
「え?」
「雪かき、お疲れさん」

昨日別れる時に雪が積もってたら手伝うから待っていろといわれたのを忘れたわけではない。
かじかんだ手を拓磨が握る。じんわりとした熱が伝わってきてすっかり冷えていたことを思い出させられた。

「拓磨の手、あったかいね」
「・・・珠紀の手が冷たいんだよ。ほら、中に入るぞ」

自分から手を繋いできたのに、私の反応に照れたのか目元がうっすら赤くなった拓磨を見て、気付かれないようにくすりと笑った。
拓磨を待ちきれなかったんじゃなくて、せっかく来た拓磨と過ごす時間を大切にしたかったのだ。

家のなかに戻ると、台所で美鶴ちゃんが夕食の支度を進めていた。

「美鶴ちゃん、手伝うよ」
「あと少しですから、珠紀様はゆっくりしていらしてください!」

拓磨が来たことに気付いた美鶴ちゃんは全てを理解したような笑顔で私を居間へと押し戻そうとする。
きっともう少ししたら他の守護者のみんなが来るだろう。
お茶だけ用意して、拓磨の元へ戻る。

「はい、どうぞ」
「ああ、さんきゅ」

湯のみを拓磨の前に置くと、拓磨は私をじっと見つめてくる。
その視線が恥ずかしくて誤魔化すように笑うと、拓磨がぽんぽんと隣を叩いた。

「・・・こっち、来いよ」
「・・・うん」

今日、二人だけで過ごせるのはきっともう少しだけ。
拓磨もそれが分かってるから普段言わないような事を言ってるんだろう。
こくりと頷くと、私は拓磨の隣に座る。
指先を拓磨の手にそっと重ねる。

「手、やっとあったかくなったな」
「うん、そうだね」

まだ湯気がぼんやりと見える湯のみにそっと口をつける。
拓磨とのこういう時間がとても好きだ。

「来年もこうやって一緒にいれるといいね」
「・・・そうだな。きっといられるだろう」
「うん」

叶うのなら、来年も再来年もずっと一緒にいれますように。
そんなことを思いながら過ごした今年最後の日。

なんでもない時間(ハルネリ)

ハルくんの集中力は凄い。
絵を描く人をハルくんしか知らないから他の人はどうなのか分からないけど、ハルくんは一度筆を握ると、瞳の色が変わる。

「…何じっと見てるの」

「気付いてたんだ」

「そりゃ、じっと見つめられたら誰だって気付くよ。
課題終わったの?」

「ははは、まだです」

私は大学の課題を、ハルくんは部屋に飾ってある花をスケッチしていた。
本当はハルくんが来るまでに終わらせるつもりだったのに、思いのほか捗らず締め切りももうすぐ…ということでハルくんに付き合ってもらうことにしたのだ。

「そんなちんたらやってたらおばあちゃんになっちゃうよ」

「頑張ります…」

ハルくんから課題へと視線を戻し、私も強く鉛筆を握る。
ハルくんみたいに筆を持った途端、集中力が上がればいいのになんて考えながら鉛筆を走らせた。
部屋には私とハルくんの鉛筆の音が響く。
ああ、こういう時間も好きかもしれない。

それからしばらくして、ようやく課題が終わった。
思い切り伸びをすると、ハルくんと目が合った。

「お疲れ様」

「ハルくんもスケッチ終わった?」

「うん、終わったよ」

はい、とハルくんはスケッチブックを私に差し出した。
それを受け取り、ぱらぱらと開くと、思いがけない絵が現れた。

「ハルくん、花描いてたんじゃなかったの?」

「おばあちゃん、俺が見てても全然気付かなくてびっくりしたよ」

スケッチブックには課題をやっている私の姿が描いてあった。
見られていることに全く気付かなかったことが凄く恥ずかしいけど、私を描いてくれたことがそれ以上に嬉しい。
ずりずりと移動し、ハルくんの隣にぴったりとくっついてみせる。

「ね、ハルくん。私の鼻、もっと高い気がする」

スケッチブックに描いてある自分の鼻を指差すと、ハルくんは「言うじゃん。」と笑って私の鼻をつまんだ。

「これで絵と同じくらいの鼻になるんじゃない?」

「そ、そんなこと」

「ぷっ」

鼻をつままれたまましゃべると変な声になっていて、ハルくんは私がしゃべるだけで愉快そうに笑う。

「じゃあ、ハルくんも」

私は仕返しにハルくんのほっぺたに手を伸ばし、頬をつねる。
思いのほか、柔らかい頬に私はふふ、と笑ってしまう。

「人のほっぺたつまみながら笑うなんて気持ち悪いよ」

「ハルくんだって人の鼻つまんで笑うなんて気持ち悪いよ」

他の人が見たら何が面白いんだろうって思うかもしれないけど、私とハルくんは手を離した後もなんだか可笑しくて笑っていた。
一通り気が済んで笑い終わったところで、私は用意していたパウンドケーキの存在を思い出した。

「そうだ、ハルくんおなか空いてない?パウンドケーキ焼いたのあるんだけど」

立ち上がろうとした私の手をつかむと、ハルくんは私を引き寄せた。
突然のことに驚いて口を開こうとすると、不意に唇が重なった。

「パウンドケーキも食べるけど、先にあんたが食べたくなった」

「…っ」

ハルくんの言葉に一気に体温が上がる。
顔が赤くなっていることだろうって自覚していても、抑えることなんて出来ない。
赤くなった私を見て、ハルくんは嬉しそうに目を細めた。

「なんてね」

「~っ、もう!ハルくんの意地悪!」

ハルくんの胸をぽかっと叩き、身体を離す前にかすめるようにハルくんに口付ける。

「お返しっ!」

恥ずかしさを誤魔化すようにそれだけ言ってハルくんから離れると、ハルくんは頬を赤くしていた。

「ハルくん、顔真っ赤」

恥ずかしかったらしく、ハルくんは不機嫌そうに私を睨む。

「早く持ってこないと同じことするけど」

「すぐ持ってきます!」

慌ててキッチンに移動すると、私は思わず噴出してしまう。
ハルくんも同じだったらしく、声が聞こえた。
なんでもない時間。
ハルくんと一緒ならどんな事でも楽しく感じるんだ。
そんな当たり前のような特別な事を嬉しく思いながら、飛び切り美味しい紅茶を淹れる為にティーポットに手を伸ばした。

恋の予行練習(金ひな)

浴室を覗きに行くとちょうど良い具合にお湯がたまっている事を確認して蛇口をひねり、居間へと戻る。

「風呂わいたから順番に入れよ」
「うんー、あとちょっとー」

妹たちが夢中になって見ているテレビがどうやら佳境のようだ。
画面には走る女。それを追いかける男が映っていた。
息を切らし、男はようやく女の腕をつかむ。
そもそもこの男はたいして足の速そうにない女を捕まえるために息を切らす程走るなんて体を鍛えていないだけではないのだろうかと呆れてしまう。
他人のラブストーリーのどこがおもしろいのか、やはり分からない。
いや、ひなこと追いかけっこをしたら俺もこれくらい息を切らすのだろうか。
そんな事を考えていると、妹たちが「きゃあっ!」と声をあげる。
さっき腕をつかんだと思いきや、男は女のあごを持ち上げ、そして…

「お兄ちゃん!画面みえない!!」
「これはお前たちには早い!」

キスシーンが終わると、妹たちの目元から手をどかす。
せっかく良いところだったのに!と文句を言われたが、ドラマも終わり、妹たちは浴室へと消えていった。

(…あれが顎クイってやつか……)

目を閉じて想像してみる。
目の前にいるひなこの頬を撫で、その手をそのまま滑らせて顎を持ち上げ、そして—

「!!!!
駄目だ!!!そんな事出来るわけがない!」

想像さえもうまくいかない。
あんなドラマのようにさらりと流れるように事を運べるとは思えない。

「兄ちゃん何してるの?」
「!!い、いや!なんでもない!」

気づけば弟たちが俺の挙動をじぃっと見つめていた。
俺は誤魔化すように咳払いをし、いたたまれなくなってトイレにかけこむのだった。

 

 

「やっぱり運動するなら朝が一番良いよねー」

気持ちよさそうにぐっと伸びをするひなこ。
日曜日の朝、ランニングに付き合うと連絡が入り、ひなこと二人で軽くランニングをした。

「お前は自転車でも使えば良かったんだぞ。何も俺にあわせて走らなくても」
「でもせっかくなら並んで一緒に走りたかったんだ。あ、もしかして速さ合わせてくれてた?」
「いや、いつもどおりだ」
「そっか、なら良かった」

ベンチに座って、一旦水分補給。
ふと、昨日みたドラマのワンシーンが頭をよぎる。
俺があんな事をしたら、ひなこはどんなリアクションをするんだろうか。
怒りはしないだろう。
…喜ぶんだろうか。照れて、笑ってしまわないだろうか。
そんな風に考えていたら無意識に手が伸びていた。

「どうかしたの、金春くん」
「!!」

ひなこの頬に触れる寸前で手はぴたりと止まる。
ひなこは不思議そうにその手を見つめる。俺はこの手を前にも後ろにも横にも動かせない。

「あ、もしかして髪に何かついてた?」

ひなこは慌てて自分の頭に触れる。
なんだかそれだけでかわいくて、思わずひなこの肩を掴んだ。

「えっ、」

肩を引き寄せ、俺はひなこの唇に自分のそれを重ねた。
つい今しがた飲んだスポーツドリンクの甘さが伝わってくる。
時間にすれば一瞬だっただろう。
そっと唇を離すと顔を真っ赤にしたひなこが俺を見上げる。

「悪い、したくなった」
「えっ!?」

本当にしたかったのは顎クイだが、我慢が出来なかった。
ひなこは恥ずかしそうに笑って、頭をかく。

「驚いたけど…うん、嬉しい」

頭の中で何かがはじけたようだ。
俺はもう一度ひなこにキスをする。

「ちょ、こんぱ…」

ひなこの制止も聞けず、何度か繰り返しキスをする。
もう、スポーツドリンクの味なんてしなかった。

「悪い」
「…絶対悪いなんて思ってないでしょ、金春くん」

ひなこには隠し事が出来ないようだ。

(次する時は、顎くいを…)

そんな小細工、ひなこを前にしたら吹っ飛んでしまうと気づくのは似たようなやりとりを何度かした後だった。

 

せめて夢のなかで(メイヒヨ)

「ーっ!!!」

勢い良くベッドから飛び起きたせいでスプリングの軋む音がした。
胸に手をあてなくてもわかる。
ドッドッとまるで100メートルを全速力で走ったばかりのように鼓動が脈打つ。
それから体にかけていたタオルケットを恐る恐る覗き、思わず深いため息が出た。

「バウンサー」

洗面台でごそごそやるにはリスクが高すぎる。
こんなときにバウンサーがいて良かったなんて思うなんていたたまれなかった。

ため息をつきながら部屋を出ると、ほぼ同じタイミングで瀬名の部屋のドアが開いた。

「あ、おはよう。陀宰くん」
「…!あぁ、おはよう」

あまりの気まずさに瀬名の顔を見ることが出来ず、視線をそらすとパタパタと瀬名の足音がきこえ、俺のすぐとなりで止まる。

「なんだか顔が赤いけど、もしかして風邪とか?」

ひょいと俺の顔を覗き込んでくる瀬名の顔には俺が心配だと書いてあるみたいで更に顔が熱くなる。

「いや、大丈夫だ。心配してくれてありがとな」
「大丈夫なら良いけど…あまり無理はしないでね」
「あぁ、おまえもな」

並んで階段を降りると、既に起きていた何人かの姿がある。
俺と瀬名が並んでいる事にめざとく気づいた萬城は眉間にシワを寄せ、俺たちを見る。
いつもならあまり気にしないが今日の夢のいたたまれなさを思い出して、俺は萬城の視線や夢の残滓から逃れるように視線を逸らした。
全員揃うとテーブルにつき、朝食がはじまった。
今日も獲端が朝から焼いたであろうクロワッサンやクルミパンが大きな皿に盛られ、色とりどりのサラダにスクランブルエッグ、ベーコンとまるでホテルの朝食のようなラインナップがずらりと並んだ。
(確かに獲端が作るものはうまいが…)
うまいんだが、どうせなら瀬名の手料理が食べたい等とは口が裂けてもいえない。
ベーコンに醤油をかけようと手を伸ばすと、またもや同じタイミングで手を伸ばした瀬名と指先が触れた。

「ーっ!」
「わっ、ごめんね」
「あ、いや」

動揺を圧し殺そうとしたが、今日はうまく出来ず、醤油差しが派手に横倒しになる。

「バカ!なにやってんだ!」
「悪い」
「ごめん、陀宰くん」

慌てて手をのばした獲端が俺たちの間から醤油刺しを奪い、慌てて拭き取る。

「瀬名、謝る相手まちがってんだろーが」
「むっ、獲端くんはもう少し謙虚になった方が良いとおもうけどなぁ!」
「はぁ~?!」

気づけば醤油刺しのことなんて話題から消え、獲端と瀬名の口喧嘩が始まる。
まぁまぁ、と誰かが仲裁にはいり、すぐに収まったが、相変わらず俺はやたらと瀬名を意識してしまい、ため息がこぼれた。

そんな調子で一日を過ごした俺は、時折ちらつく夢の中の瀬名を頭から追いやり、熱めのシャワーを浴びて、ソファーで涼んでいた。
タオルで顔を押さえていると、背後から誰かが近づく気配がした。

「だーざいくん!」
「ーっ!」

それはまたもや瀬名だった。
冷たいグラスを俺の頬にぴたりと押し付け、驚いた俺が目をぱちぱちとさせていると悪戯が成功したことが嬉しいのか、少し子供じみた笑みを浮かべていた。

(そんな顔、ずるいんだよな)

あんまり可愛い顔を見せないでほしい。
俺だって男なんだから…俺にあんな夢を見せる隙を与えないでほしい。
瀬名は何一つ悪くないのについ恨みがましい気持ちになってしまった。

「ハチミツレモンをソーダで割ったの、さっぱりしてて美味しいよ」
「あぁ、ありがと」

受けとると、瀬名は俺のとなりに腰かけた。
なんだかいつもより近く感じる。
そわそわと落ち着かない気持ちでいると、瀬名はソーダを一口飲んで、俺の方を向いた。

「なんか、今日の陀宰くん。やっぱり様子おかしかったなーっておもうんだけど」
「そんなことは…」
「私、なにかした?」

さっきは笑っていたのに、今は不安げに揺れる瞳。本人は意識してないところがずるい。
そんな顔をされたら抱き締めたい、なんて思ってしまう。

「あー…いや、違う。瀬名は悪くない」
「でもなにかあるんだよね?」
「……」
「できたら教えてほしいな。陀宰くんがどうしても話したくないなら無理にとは言わないけど…」
「……」
言うべきか言わざるべきか…
考えあぐねた結果、俺はしばしの沈黙の後口を開いた。
「今日、瀬名の夢を見たんだ。だからちょっと気恥ずかしかっただけだよ。心配させて悪かった」
「夢?」
「あぁ」
「なんだ、夢か」

瀬名は安心したように微笑む。
それを見て、俺もほっと胸を撫で下ろした。

「でも、どんな夢だったの?」
「それはあんまり覚えてないんだ。ただ瀬名がでてきた夢だったんだけどな」
「そうなんだ」

まさか、瀬名と……の夢だなんて言えるわけもなくそこだけは守り通すことにした。

「じゃあ、今日の私の夢には陀宰くん出てくるかな」
「え?」
「だって陀宰くんの夢に私がでてきたなら、私の夢にも陀宰くんでてくるかもしれないでしょ?」
「…瀬名は俺の夢、みたいのか?」

思ってもみなかった言葉に俺は思わず問い返すと、瀬名は自分が何を口走ったのか理解したらしく、顔を真っ赤にして、立ち上がる。

「お、おやすみなさい!!」
「……おやすみ」

パタパタと駆けていく瀬名を見送ると俺はじわじわと体が熱くなるのを感じた。

「あんなの、卑怯だろ…」

俺の夢をみたいって。
可愛すぎてどう処理していいか分からない。
頭を抱えそうになりながら、瀬名がくれたソーダを一気に飲み干す。

(まぁ…今日も、瀬名の夢を見ても悪くはない)

朝のいたたまれなさも、今日の無能さも、今さっきの瀬名で全部ふっとんでしまった。
夢の中では抱き締めた彼女を、いつか現実でも抱き締められるのだろうか。

(…いやいや、だから今だけは夢のなかでだけでもとか)

誰に言い訳をしてるのかわからないが、そんな事を考えながらベッドに潜り込んだ日に見た夢は、獲端と凝部に振り回される夢だとか。
夢も現実もなかなか思い通りにいかないものだ、昨日とは違うため息をついて、俺は目覚めるのだった。

君と食べるご飯 プロローグ(メイ)

一人になったリビングで俺は天井を見上げていた。

「はぁ」

自分の選択に後悔はしていない。していないつもりだ。けれど、この広い宿舎で一人きりだと考えてしまう。俺の選択は正しかったのか、と。

「自分一人が帰る事も、他の誰かを一人残して帰る事も俺には選択できなかったからしょうがないよな」

俺一人が残ると言った時の疑部くんの顔はひどかった。掴みどころのない奴だと思っていたけれど、あんな顔をするんだと驚いてしまったし、少しだけ嬉しかった。もしかしたら疑部とは友達になれたのかもしれないと考えた途端、腹の虫が音を立てて主張を始めた。

「忘れてた…飯」

何もしていなくても人の体は不思議なもので、腹は空く。そっと自分の腹を撫でて、空腹をやわらげる。

「バウンサー、簡単に食べれるもの出してくれ」

俺の後ろにいたバウンサーに指示を出すと「リクエスト、受け付けました。組成を開始します」と無機質な音声が流れると、俺の目の前にサンドイッチが現れた。それを手に取り、頬張る。今食べたのは卵サンド。美味いと言えば美味いんだが、つぶした黄身のぼそぼそした感じが少し口に残る。もったいないとは思ったが、半分食べたところでサンドイッチをテーブルの上に戻す。一人で食べる飯は驚く程味気ない。

「…静か、だな」

何回この言葉を口にしただろう。その度に返ってくる言葉がない事に気持ちが沈む。何もしゃべらなければ、何も食べなければ、きっと孤独は浮彫にならない。

眠くはないが、もう眠ってしまおう。二階に上がるのも面倒くさくて、俺はソファの上にごろりと寝転んだ。

「バウンサー、毛布を出してくれ」

「リクエスト、受け付けました。組成を開始します」

バウンサーは同じ言葉しか発しない。それでもないよりはマシだ。毛布も、バウンサーも。バウンサーが出した毛布にくるまり、俺は目を閉じる。脳裏に浮かんだのはクラスメイトの女の子だ。授業中、彼女の横顔を盗み見る事が好きだった。時々視線に気づいた彼女は「今やってるのはここだよ」なんて俺が居眠りでもしてて先生の話を聞いていなかったと誤解し、ページ数を教えてくれるのだ。違うと否定すればどうしてみていたか尋ねられるだろうから俺はあえて「ありがとう」と返していた。居眠りをしてると思われるのは心外だけど。委員会で居残りをしたり、たまに一緒に帰ったり。何気ない時間を共に過ごした、俺の好きな子。

(瀬名は元気だろうか)

異世界配信にかかわる人物の記憶はすべて消えると聞いた。俺の事なんて忘れてしまっているんだろう。

けれど、願ってしまう。瀬名の記憶の片隅にでも俺が存在しますように、と。

そんな事を考えながら眠りに落ちたのに、夢も見ず俺は暗闇の中に一人ぼっちだった。

 

 

そして目を覚ます。誰もいないリビングを抜け、面倒だったのでキッチンで顔を洗う。バウンサーに出してもらったタオルで顔を拭き、俺は昨日残したサンドイッチにもう一度手をのばす。今度はレタスとチーズとハムがはさんであるサンドイッチだ。俺が悪いんだけど、出しっぱなしにしていたサンドイッチはすっかりぬるくなっていて、うまさは半減だ。

「美味いものが食べたい」

きっとグラタンを出してくれとバウンサーに言ったら出てくるだろう。でも、美味しくは感じない気がした。それを確認することが怖くて、俺は簡単な食事しかリクエストしない。

なんとかサンドイッチを口に押し込んだ。

「…今日はどうするかな」

すっかり増えた独り言。返事なんてない言葉の数々に意味なんてないだろう。

「図書館でもいくか」

何か手掛かりになるものがあるかもしれない。きっともう残っていないやるべき事を探して、俺は重い足取りで宿舎を出るのだった。

私の好きな人(ソウヒヨ)

授業が終わると、隣の席の疑部くんが気だるそうに鞄を指に引っ掛け、私を見下ろす。

「ヒヨリちゃん、かーえろ」
「ごめん、疑部くん!私、先生に呼び出されてて…」
「え~、なにしちゃったの?」
「こないだの進路相談の書類出し忘れてただけです!」

疑部くんは呼び出しを食らっていないということはきちんと提出したのだろう。
ちょっと裏切りじゃないかと思いながら彼を見つめ返す。

「ふーん、じゃあ早く出してくれば?早くしないと先に帰っちゃうかもよ」
「えっ、待っててくれるの?」
てっきり置いてかれると思った。
心外だと言わんばかりに顔をしかめた疑部くんは
「そりゃー、彼氏ですから。大好きな彼女の事くらい忠犬のように待つけど?」
なんて言葉を口にする。
「忠犬って…疑部くんに似合わない言葉」
「早く行かないとこの場でチューします」
「!!! いってきます!」
「いってらっしゃーい☆ 下駄箱で待ってるねー」

ひらひらと手を振る疑部くんを残し、私は急ぎ足で職員室へと向かった。
息を切らしながら先生の元へ行くと「早く出せとは言ったけど、そんなに急がなくてもよかったんだぞ」なんて言われてしまい、少し…いや、大分恥ずかしかった。

用事が終わり、職員室を出ると同じ学校なのに滅多に出会わない獲端くんと遭遇した。彼は私に気づくと「げ」と失礼な声を出し、くるりと反転した。

「ちょっと!その反応は失礼だと思う!!」
「うるせぇんだよ。疑部といい、お前といい、どうしていちいちうるせえんだ」
「獲端くんの反応が失礼すぎるからだと思います」
「なら自分の彼氏、ちゃんと躾けておけよ。マジでうざい」
「しつけって…犬じゃないんだから」
「ある意味、犬の方が利口かもな。お前たちより」
「なっ!獲端くんより犬の方が愛嬌あって可愛いしね!」
「は?愛嬌の話なんてしてないだろ」
「利口な話もしてません」

どうして獲端くんとはいつも言い合ってしまうのか。
そう思いながらもぽんぽんと中身のない言い合いを続け、気づけば下駄箱までたどり着いた。私の下駄箱の前に座り込んでいた疑部くんは私たちに気づくとふっと柔らかく笑った。

「ヒヨリちゃん、僕を待たせておきながら他の男と楽しそうにしてるのはちょーーーっとよろしくないんじゃないかな?」
「楽しくなんてしてないよ!待たせちゃったのはごめんね?」
「はーーーバカップル。さっさと帰れ」
「ケイちゃんも一緒に帰る?」
「帰るわけないだろ」

しっしと犬を追い払う動作をすると、獲端くんは自分の下駄箱へと立ち去ってしまった。

「ケイちゃんは素直じゃないんだから。じゃ、かえろっか」
「うん」

さっき一瞬だけ見た淋し気な横顔。
それから私たちを見て、柔らかく笑った事。
その瞬間がひどく印象的に感じた。

「ねえ、疑部くん」
「ん?」

結局、獲端くんは一緒に帰らずいつものように私と疑部くんは二人並んで歩いている。彼の手が私の手に時々触れるのに、握ってこないのが逆に意識してしまい、ちらちらと手を見てしまう。

「さっき、私が獲端くんと一緒にいてヤキモチ妬いた?」
「んー、どうしようかなぁ」
「なんで質問にどうしようかなって言うかなぁ」
「だって妬いたっていったらヒヨリちゃんに器の小さい男って思われるかもしれないし、妬いてませんっていったらヒヨリちゃんががっかりするかもしれないし」
「私の反応を期待して回答しないでください」
「えー」

飄々とした疑部くん。
手を伸ばせば、ひらりとかわされそうで。
でも、体当たりすればあっさりつかまってくれそうで。
なんというか、つかみどころがあるんだかないんだか。
でも―

「!」

さっきから何度も触れた手の小指をきゅっと握る。
疑部くんは驚いたらしく、私をちらりと見る。

「えへへ」
「なにそれ、超かわいいんですけど」
「私がこういうことするのは、疑部くんだけです」

好きな人には触れたいし、触れられたい。
誰かを本気で好きになって初めて知った。
疑部くんを好きになり、疑部くんが私を好きになってくれ、彼氏彼女になったけどまだまだ知らないことはたくさんある。
だけど、私しか知らない疑部くんもたくさんいる。
今だって、小指をつないだだけなのに、顔を赤くしている。

「可愛いんだから」
「は?」

疑部くんは私のこと、可愛いって言ってくれるけど、疑部くんだって可愛いんだから。
にこにこと笑うと、疑部くんはわざとらしいため息をついた。

「ちょっとだけ妬いたよ、さっき」
「ごめんね。そんな気はした」

掴みどころはなく、飄々としていて、自分のペースに他人を巻き込むことが得意なくせに、たまに私のペースに巻き込まれちゃう。
それが悔しいのか、たまにふてくされる。
でも、そこが可愛く思えてしまうのは、恋の力なのかもしれない。

私の好きな人は、可愛い人だ。

 

 

家族になりたいわけじゃない(ジェドエル+ウサギ)

とろくさい兄ちゃんだと思っていたら、本当は姉ちゃんだった。
女の人の着替えを覗くのは良くないと、あの後ウサギに叱られてしまったけど、ジェドが女の人だと知って良かった…ような気がする。

「ねぇ、ジェドはどうしてあんなところに住んでるの?」
「え?」

カレイドヴィアの聞き込みに回っているジェドが途中経過の報告がてら教会にやってきた。
ちょうどロレンスは外出していたけど、「すぐ帰ってくるだろうし、戻ってくるまで待ってれば」と誘ってみると「そうしようかな」と珍しく頷いた。
便利屋という仕事は忙しいらしい。街のいろんな人に声をかけられて、買い出しをしたり、壊れているものを直したり、時には用心棒の真似事もするらしい。

「前は狼の屋敷で暮らしてたんでしょ?レビが言ってた」
「そんな話をするくらい仲良くなったんだね、レビと」
「そんなって…たいした話じゃないだろ」

確かにレビには稽古をつけてもらって、少しずつ打ち解けてきた気がする。
事あるごとに「ジェドは凄いんだぞ」と自分の事のようにジェドの話をするレビを見て、時々うんざりするが、少しずつジェドに興味がわいてきた。

なんであんな淋しげな場所で暮らしているのか、とか。
なんで女の人だということを周囲に隠しているのか、とか。

「一人であんなところにいるなんて変わってると思うけど」
「ぷう!」
「ほら、ウサギもそうだって言っている」
「住めば都って言うじゃない」
「都なの?」
「いや、そんなことはないけど…」

ジェドは困ったように頬をかく。
腕の中でお利口にしていたウサギが「ぷう~」と淋しげに鳴いた。
多分、ジェドの様子を見てウサギも心配になったんだろう。
だから…

「行くところがないなら、ここにくればいいのに」

いつも思っても口にしない言葉がぽろりと零れた。
すると、ジェドは驚いたように目を丸くして、ボクを見つめた。

「! こ、ここは行き場のない人が来る場所だし?
キノコを食べてくれるんだったら別にいいかなって思っただけだよ!!」
「はは、そんなに慌てないでもいいのに」

ジェドは手を伸ばし、ボクの頭にそっと触れた。
ゆっくりと頭を撫でられる。ふと、見上げたジェドの顔がいつもより大人びて見えた。それとレビが言ってた「ジェドは意外と睫毛が長いんだよなー」なんてどうでもいいことも思い出した。

「ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。
それにあの場所は淋しい場所なんかじゃないから大丈夫だよ」
「ぷう?」
「うん、ウサギもありがとう」
「ぷうぷう~!」

ボクの頭からジェドの手が離れ、今度はウサギが撫でられる。
気持ちよさそうにぷくぷくと呟くウサギに、気持ちが緩んだ。

「ただいまー」

教会の扉の開く音がして、続いてロレンスの声がした。

「あ、帰ってきたみたいだね。エルリック、お茶ご馳走様」

「おかえり、ロレンス」と言いながら、ジェドはロレンスを出迎えた。

頭を撫でられるなんて、いつ以来だろう。
たまにレビが撫でてくるけど、ガシガシと力任せにされるので嬉しい気持ちより早く解放してくれと思ってしまうのに。
ジェドに撫でられた時は驚く程心地よかった。

「…別にそんなんじゃないよ」
「ぷう?」

ぎゅっとウサギを抱きしめると、ウサギはボクの頬にふわふわな毛並みを押し付ける。

 

ボクとウサギとロレンスと…そこにジェドがいたら楽しいなと思ったわけじゃない。

そういう顔は禁止です(ソウヒヨ)

今日は学校全体が落ち着かない。
だってバレンタインデーだ。仕方ない。
去年までは家族とトモセくんと、女友達にあげるくらいしかなかったのに、今年は違う。

「ねーねー、ヒヨリちゃん。さっきからすっごーく挙動不審に見えるけど」
「え!? そう?」
「毎日キミの事を見てる僕が言うんだから間違いないと思うなー」

昼休み。屋上に移動して、二人で昼食を食べる。
私はお弁当だけど、疑部くんはいつもの菓子パンを頬張っている。
ああ、お昼に甘いもの食べたらチョコレートなんて食べれないんじゃないかな。
そんな心配をするなら疑部くんのお弁当も作ってくればよかったと少し後悔しながら私は卵焼きを口へ運ぶ。

「ねえ、ヒヨリちゃん」
「なに?」
「俺もその卵焼き食べたい」
「うん、いいよ」

私が使っているお箸を渡そうとすると、疑部くんは目を閉じて、大きく口を開いた。

「あーん」
「えっ!?」
「早くしてほしいなー」
「それはちょっと恥ずかしいんじゃないかな」
「このまま口を開けてる方が恥ずかしいと思うんだけどなー」

屋上には他の生徒もいる。見られているわけじゃないけど、急に視線が気になって顔が熱くなる。早く早くと催促する疑部くんに観念し、私は卵焼きをえいっと疑部くんの口に突っ込んだ。

「ん、美味しい」
「…それは良かったですね」
「ヒヨリちゃんってば一気に疲れた顔になってる」
「疑部くんは恥ずかしくないの?」
「えー、そんなことよりキミの反応見る方が面白いし☆」

疑部くんはこういう人だ。
私は火照った頬を意識しないようにしながらお弁当を平らげた。

お弁当箱を片付けた後、私は背中に隠していた袋を膝の上に移動させる。
綺麗にラッピングした小さな箱を取り出し、疑部くんに差し出す。

「はい、疑部くん。ハッピーバレンタイン」
「ヒヨリちゃんからの本命チョコ?」

からかうような口調で疑部くんが尋ねてきた。

「彼氏に贈るんだから本命チョコですけど?」
「あー、怒んないで怒んないで。ありがとね、ヒヨリちゃん」

笑顔を浮かべて、私の手からチョコを受け取ろうとする疑部くんを避ける。
疑部くんは驚いたように私を見つめているが、その視線を無視して私はリボンをしゅるっと解いて、箱を開く。
一番きれいに出来たトリュフを5個、詰め込んである。
そのうちの一つを指でつまみ、私は疑部くんの口元へと近づけた。

「はい、疑部くん。あーんして」
「…!」

さっきの仕返しだ。言う方の私も十分恥ずかしい。
だけど、疑部くんは目を丸くして、顔も真っ赤だ。

「ヒヨリちゃん、それは反則でしょ」

顔を赤くしたまま、疑部くんは口を開いて、ぱくりとチョコを食べた。

「ん、美味しい」
「良かった」
「こういう大胆な事は人がいるところでしてはいけません」
「疑部くんだってさっきやったじゃん」
「あれはふざけただけ。キミがあーんして、とか言うの可愛すぎてやばいと思うんですけど?」

恥ずかしさを誤魔化すように疑部くんがまくしたてるように話す。
それが可愛くて、気づけば私の頬は緩んでいた。

「だからそういう顔も禁止」
「えー、どういう顔?」
「俺の事が大好きって顔!」

自分が今、どんな顔をしているのかは分からないけど。
多分疑部くんの言う通り、彼の事が大好きだという顔をしているのだろう。
でも、きっと私の目の前にいるこの人も、私の事を大好きって顔をしている。
それを言ったらまた恥ずかしがりそうだから黙っておこう。

 

大好きなあの人(ロン七)

2月14日。
決して浮かれたわけではないが、街に買い物に行くとやたらと目立つ装飾でバレンタインデーというものが宣伝されていた。
多分、過去にも見かけたことがあったかもしれないが、その時は全く興味がわかなかった。
だけど、今はそれを目にして立ち止まるくらいには興味を持っている。

『大好きなあの人へ―』

そう書かれた言葉に惹かれたのか、美味しそうな色とりどりのチョコレートに惹かれたのか…言うまでもないだろう。

 

 

「七海」
「台所に近づかないでって言ったはず」
「あれ、そうだっけ」
「さっき言った。これから台所を使うから近づかないでって」
「うーん。それで何をしようとしているの?」

チョコレートを溶かして固めようとしただけなのに、チョコレートはうまく溶けず、ボウルの中でごろごろとしている。

「……」
「あ、そうだ。七海、これあげる」

そういって、ロンは冷蔵庫からタッパーを取り出した。
ぱかっと開くと、そこには丸い形をしたチョコレートがいくつも並んでいた。
それはまさに私が作ろうとしていたものだ。

「はい、あーん」
「…! どうして?」
「え、チョコレート嫌いだった?」
「好き。でもどうしてロンが?」
「はい、あーん」

ロンはチョコレートを一つとると、私の口元へ運んだ。
仕方なく口を開いて食べると、口のなかであっという間に溶けてしまった。

「美味しい」
「良かった。初めて作るものは緊張するね」
「…どうして?」

もう一度訪ねると、ようやく答える気になったのかロンは「んー」と間延びした声をあげた。

「だって大好きな人にチョコを贈る日なんでしょ?」
「…!」
「だったらキミにあげないと」

その言葉に頬が熱くなる。
彼の言葉はストレートだ。まっすぐに私への気持ちを口にする。
それは何度言われても慣れることはなくて、私はいつも赤くなる。

「大好きだよ、七海。もう一個食べる?」
「…うん」

そう言って、もう一度口へチョコを一つ。

「私も好き、ロン」

ロンは目を細めて、微笑んだ。

 

全部キミのもの(ソウヒヨ)

それはとても他愛のないやりとりだった。

「ねえ、凝部くん。もうすぐ誕生日だけどほしいものある?」

下校途中、吐く息も白い2月上旬。
ヒヨリが小首をかしげながら訪ねてくる。どうしてうちの彼女はいちいち可愛いのだろうと時々頭を抱えたくなる。

「そうだな~、ヒヨリちゃんかな☆」
「えっ!?」
「だってこういう時のお約束でしょ?プレゼントは私!みたいな」
「私は真面目に言ってるのに!」
「僕だって真面目に言ってるよ~」

彼女の表情はころころ変わる。それが可愛くて、ついついからかってしまうんだけど。
まさかこの時の会話が後の色々につながるなんて思ってもみなかった。

・・・・

「えーと、ヒヨリさん?」

俺は今、彼女に押し倒されています。
俺の誕生日である2月10日は日曜日と重なり、お祝いをしようとヒヨリが家に遊びにきた。休日なんて関係なく仕事のある両親は今日も不在。
いとしい彼女と二人きりの誕生日なんて、少し緊張するなと思ってはいたけれど。
まさか自分の大きめなベッドの上で、彼女に押し倒されるなんて想像もしていなかった。

「凝部くん、お誕生日おめでとう」
「うん、ありがとう。それでヒヨリさん。これは一体どういう事?
あ、もしかしてプレゼントは私☆みたいな?」

なんて冗談だよねと言葉を続けようとすると、俺を見下ろす彼女の頬は羞恥で赤らんだ。そんな顔をされるなんて思ってなかったので、思わず俺の喉が鳴る。

「そのつもりだけど」

短く返された言葉がかえって本気っぽい。
ヒヨリは俺の服の隙間から手を入れ、腰あたりをゆっくり撫でまわす。

「ちょっ」

くすぐったさと彼女の手の心地よさで思わず声が出る。
そんなじれったい動きを繰り返しながら、ゆっくりと俺の服を脱がせると、脱がした本人が顔を赤くした。

「ねえ、ヒヨリちゃん。なんで赤くなってるの」
「だって、初めて見たから…」
「初めて見せますもん。キミが脱がせたくせに」
「そうだけど!!」

拒むべきか、受け入れるべきか未だに答えは出なくて。
俺は戯れに触れらてくるヒヨリの手の心地よさにドキドキしていた。
今までだって、何度かそういうタイミングはあった。
あまりの無防備さに我慢できなくて、キスをしながら押し倒した事だって一度や二度じゃない。
それでも我慢してきたのは、なぜか。
俺も年頃の男の子だし、我慢は体に良くない。
大事にしたいから手を出せないとかそういう事じゃなくて。
多分、俺は怖いんだ。
これ以上、ヒヨリがいなくては生きていけないなんて思う事が。
彼女を好きになって、世界は変わった。
今まで周囲をかき乱す存在は俺だったのに、今ではすっかり俺自身がかき乱され、ペースを狂わされる。

「じゃあ、俺も触っていい?」
「どうぞ?」

上半身裸の俺を見るのさえ恥ずかしがってるくせに。
この子も結構強情な子だったと思い出す。
体を起こし、向かい合う格好で彼女の頭を引き寄せる。
ついばむような口づけを繰り返し、それから舌を差し込んだ。
いつもなら逃げ惑うのに、今日は挑戦的に舌が触れ合う。
角度を変えて、何度も何度もキスを交わしながら、俺はそっと彼女の服に手を差し込んだ。さっきヒヨリが俺にしたみたいにゆっくりと腰を撫でまわし、それから背中を昇っていく。自分には無縁の存在が手にあたり、留め具を探して、まさぐる。
ようやく見つけたホックを一度、二度、指ではじいて、ようやく外すことが出来た。

「…慣れています?」

無事にホックを外せたことに安堵しているなんて気づいていないヒヨリはキスの合間にじぃっと濡れた瞳で俺を見上げる。ああ、可愛い。そんな風に見つめるのは反則でしょう。

「まさか、キミが初めてなのに」

そこは素直に口にしてみても、紫がかった瞳が信じていませんと言っている。
くすりと笑みをこぼし、俺はそっと彼女の服を脱がせる。外したブラをはぎとろうとすると、恥ずかしいのか両手でぐっと胸元を隠されてしまう。
そういう態度が男を煽るなんて、きっとこの子は知らないんだろう。
いや、知っていてやっていたらタチが悪い。
おなかあたりにあるリボンをほどき、下も脱がせると白い肌が俺の前に現れた。

(さっきまでどうしようか決めかねていたくせに)

俺って意外と流されやすかったんだなぁと内心苦笑いを浮かべる。
彼女のこんな姿を見て、引けるわけがなかった。

「凝部くんも脱いでください」
「え~、ヒヨリちゃんのエッチ☆」
「私の事は脱がせたのに!」

彼女のご要望にお応えして、ズボンを脱ぎすて、下着だけの状態になる。
自身はすでに反応していて、ヒヨリちゃんの目がそこにくぎ付けになった。

「凝部くん」
「そんなにじっと見つめられると照れるなぁ」

彼女に覆いかぶさろうと手を伸ばすと、また世界が反転する。
なんで今日の俺は何度も天井を見上げてるんだ。

「ヒヨリちゃん?」
「凝部くん、大丈夫。予習、してきました」

そう言って、ヒヨリちゃんは俺の足の間に体を割り込ませ、俺の下着に手をかけた。この場合、予習とは一体何を指すのか俺には全く見当がつかない。ただ、やばいという事だけは分かった。

「ちょ!ちょっと!ストップ!ヒヨリちゃん、ストップ!」

下着を下ろされ、すでに勃ちあがっていた自身がヒヨリの目の前に飛び出す。
目を丸くした彼女は意を決して、それをくわえようと口を開いた。

「ヒヨリちゃん、ストップ!」

俺はなんとか起き上がって、彼女を引き離す。

「どうして?」
「どうしたの、そんな大サービス!」

男にとっては喜ぶべきことだろう。いや、正直とても嬉しかったけど!!

「だって、凝部くんの誕生日だから…凝部くんに喜んでほしくて」

喜ばせたい一心で初めて彼氏を押し倒して、くわえようとしてくれる彼女の行動力はとんでもない。
そんな愛おしい彼女を俺はぎゅっと抱きしめた。

「ヒヨリちゃん。俺を喜ばせたくて、そういうことしてくれるのは嬉しいよ。
嬉しいけど、それは今度に取っておいてください」
「…その方が良い?」
「うん。とても」
「分かった。…はー、凄く緊張した」
「そうだろうね。俺もびっくりした」

二人で顔を寄せ合って、ひとしきり笑いあった後。
もう一度キスを送った。

「してもいい?」
「うん……」

今度こそヒヨリをベッドに押し倒し、俺は彼女の胸に手を伸ばす。
初めて触れたそれは柔らかく、手の平にあまる大きさだった。

「んっ…」

優しく先端をこね回すと、小さな声が漏れた。

「可愛い、ヒヨリちゃん」
「恥ずかしい…! んっ、あァっ…」

口に含むと声はより一層甲高いものになる。
可愛い俺のヒヨリ。全部全部俺のものにしたい。
胸をいじりながら、片手を下腹部へもっていくと、ぬるりと蜜が溢れていた。

「ぎょうぶくん!もう…!!」
「ダメだよ、ちゃんと慣らさないと」

指を一本、いれるとヒヨリの体はびくりと震えた。

「痛い?」

ふるふると首を振り、彼女は俺の腕を強く握る。
膣内を確かめるようにゆっくりと指を動かし、浅い出し入れを繰り返すと次第に彼女の口からこぼれる嬌声が大きくなる。

「はっ…んっ、あァ…っ、あ!んっ…!」

彼女の声を聞いているだけで自身はどんどん熱く、硬くなっていく。
ああ、やばい。限界かも。俺は指を抜くと、ヒヨリの足の間に体を割り込ませた。

「いい?」

俺の言葉に、ヒヨリがこくりと頷いた。
彼女の太ももを持ち上げ、自身をあてがおうと引き寄せる。
その時、ゴムの存在を思い出した。

「あ、ごめん。ヒヨリちゃん、ゴム…」

そう言おうとした瞬間、俺の自身は彼女の太ももに触れてしまった。
初めての柔らかい肌に、興奮してしまったそれは勢い良く精を吐き出した。

「ひゃっ!」

ヒヨリも突然の事に驚いたのか、びくりと体がはねる。

「あー……」

言い訳をさせてもらうと、とても限界でした。
だって、彼女に押し倒されて、服を脱がされたり、初めてなのにくわえようとしてくれちゃったりして…もうすっかり元気だったそれは彼女の太ももに触れただけで達してしまう程だった。

「ごめん、ヒヨリちゃん」
「え?えーと、これは?」
「うっかりイってしまいました」
「あー、なるほど?」

予習をしてきた!と言っていたが、それはどの程度だったんだろうか。
自らの太ももに広がるそれを見て、ヒヨリちゃんは顔を赤くした。

「…つまり凝部くんも初めてだったって事?」
「俺、さっき言ったよね。初めてだって」
「だって慣れてるように思ったんだもん」

ヒヨリちゃんは安心したように頬を緩め、それから俺に体を寄せた。

「幻滅した?」
「え?なんで?」
「だって挿れる前にイくなんて情けないでしょ」
「全然そんな事ないよ。いっつも私が凝部くんに振り回されてると思ってて、凝部くんは余裕しゃくしゃくなのかもって思ってたから。
凝部くんもいっぱいいっぱいになってたんだなって分かって嬉しかった」

えへへ、と笑う。情けない姿を見せたのに、それでもこんな風に笑ってくれるなんて、あーもうこの先敵わないんじゃないかと思ってしまう。
俺も、キミが好きで好きで、結構いっぱいいっぱいだったりするんだよ。
周囲をかき回す役回りは得意なんだ。だけど、キミにはもう装えない。

「ヒヨリちゃん、好きって言ってよ」
「凝部くん、好きだよ。大好き」

今度はヒヨリからそっとキスが贈られた。

「ねえ、ヒヨリちゃん」
「なに?」
「リベンジ、してもいい?」
「え?」

思春期真っ盛りの元気な男の子ですし?
元気を取り戻した自身に気づいたヒヨリは、顔を赤くして俺を上目遣いに見つめる。

「お手柔らかにお願いします」
「それはどうかな?」

嘘だよ。
とびきり優しくしてみせる。
大好きなキミが、俺のためにしてくれたこと。俺のことをどう思っていたのかとか。
そういうすべてが嬉しいから、俺のすべてはキミのものだよ

「キミが好きだよ、ヒヨリちゃん」

まずはもう一度、とろけるようなキスをーー

猛毒注意(ソウヒヨ)

「ねえ、凝部くん」

俺の彼女は危機感がない。いや、あるのかな?
トンっと肩を押せばあっという間にひっくり返るだろうし、その上に覆いかぶさってみせれば顔を真っ赤にするけど、「嫌だ」とは言わない。
彼女としてはきっと自覚なく、俺の理性を試すような事ばかり。
今日も休日の昼下がり。俺の部屋に上がり込んで、ヒヨリのために用意したクッションをぎゅっと抱きかかえながら俺の背中を見ている。

「ん~、なーにー?」

かたかたとキーボードの音だけが響く部屋。
こんな場所に来たって楽しくはないだろう。
それならどこか彼女が好きそうな場所にデートに連れて行ってやればいいだろうと思う自分もいるのだが、今はその余裕が心にはない。焦燥感ばかりが俺を責め立てる。

「ちょっと休憩しませんか」
「休憩するほどやってません」
「私が来てからずーーーーーっとパソコンを見ていると思います」
「それはそうかもねぇ」

休みの日。
愛おしい彼女と密室で二人きり。
意識をそっちに向ければ、多分色々な事がしたい欲が溢れる。
一度溢れたら自制がきかないのでは、と俺は思っている。
だからあんまり煽らないでくれ。そういっても彼女には意味がないだろう。

「分かった!じゃあ、休憩がてらゲームしようよ」
「何が分かったの?ヒヨリちゃん」

くるっと椅子を回転させ、ヒヨリを見下ろす。

「スピードか、大富豪か、神経衰弱?」
「ま、たまには良いっか。やる?」
「え、いいの?」
「自分から誘ってきたくせに~」

まるでご主人様に構ってもらえる事が嬉しいわんこのようにヒヨリの顔はぱぁっと明るくなる。
そういう素直なところも好きなんだよなぁ。

「神経衰弱!たまにやると楽しいよね。弟たちともよくやるよ」
「よくやってるなら他のが良いんじゃないの?」
「凝部くんとはまだやってないし。やりましょう」
「それじゃあ、勝った方のいうことをなんでも一回聞くっていうご褒美つきでやろっか☆」
「え、凝部くん神経衰弱得意?」
「さあ、どうかな?」

ヒヨリは少し困った表情を浮かべたが、首を左右に振ると「よし!頑張る!」と気合を入れた。

それからカードを切り、裏面にして並べる。
神経衰弱は割と得意だ。
一人でも出来るからたまに手だけ動かしたい時とかやったりしていた。
だから油断していたというわけではないんだけど、それよりもただ彼女の方が得意だったらしい。
強運の持ち主だとは思っていたが、初めてめくるカードも次々とペアを引き当て、気づけばヒヨリの圧勝で戦いは終わった。

「やった!私の勝ち!!」

子どものように万歳をして喜ぶ彼女。
負けたのは悔しいけど、彼女の笑顔が見れたなら安いものかもしれない。

「で、俺に何をお願いしたいの?もしかしてあれやらこれやら?」

恋人の階段を昇ろうってお誘いなわけはないと分かっているが、顔を赤くする彼女は何度見ても可愛くて愛おしいからついついからかってしまう。

「私が良いっていうまで目を閉じてください」
「えー、やらしーー」
「お願い聞いてくれるんでしょ!?」
「はーい」

何をされるのか少しわくわくしながら目を閉じる。
ふわりと彼女の優しい香りが鼻腔をくすぐったと思ったら、唇にあたたかな感触が押し当てられた。

「!」

驚いて、思わず目を開けるとすぐそばには目を閉じた彼女の顔。
恥ずかしさからか、耳が真っ赤になっていることが視界の片隅で確認出来た。

「私が良いっていうまで閉じてっていったのに!」
「だって、まさかそんな大胆な真似されるなんて俺も思ってなかったし!」

彼女の体が俺から離れる。
じわじわと熱が体を駆け巡るみたいに熱くなる。
ああ、これはやばい。
だから言ったじゃん。無自覚に俺の理性を煽るのが得意だって。
そういうところ、本当気を付けてほしい。好きだけど。

「だって、あんまりキス…してなかったから。たまにはしたいと思うんです」
「キミって本当に……」

毒か薬か。
前に話した事があった。あの時も彼女は俺にとって毒だと言ったけれど、これは猛毒。全身を駆け巡って、俺を作り替えていってしまう。

「あーーー、もう!」

離れた体を抱き寄せ、ぎゅうっと抱きしめる。

「よし、決めた。デートに行く」
「え?」
「キミが好きそうなファンシーなお店に行って、ごてごてした可愛いもの買ってあげる」
「私、ファンシーなもの好きなんて言った?」
「顔に書いてある」
「えー、そんな事ないよー」
「細かい事は気にしないの。ほら、行こう。それとも僕に押し倒されたいの?」

ヒヨリの返事を聞かないで彼女の手を取って立ち上がる。
ああ、外は暑そうだな。もう夏は終わったのに、残暑はいつまで厳しいんだ。

「ふふ、優しい彼氏!」
「キミは優しくない彼女!」
「失礼な!」

蛍光灯の明かりの下で見るより、太陽の下で笑うキミの方が可愛いなんて多分もう何回も思ったけど、キミの笑顔を見るとやっぱり好きだと心が緩んだ。

少しだけ大人のキスを、(シエハイ)

他人は他人。自分は自分、とは良く言うが、
他人がどうしているのか気になる時があるのは仕方がない事だと思う。
私は今まで縁のなかった恋愛特集の雑誌を隅から隅まで熟読する。

「最近、玻ヰ璃は難しい顔をして雑誌を読んでるなぁ」

リビングのソファで膝を抱えるようにして雑誌を読んでいると、お風呂上りの兄さんは感心したような声で言う。

「兄さんもそういう時期がきっと来るよ」
「え、そう?」
「うん、絶対」
「何の本?」
「それは内緒」
「えー、なんだよー」

兄さんには言えない。
恋愛についての雑誌だなんて。
彼氏ともう少し距離を縮めたいとか、そういう事が書かれた恋愛談義の雑誌なんて見せたら「玻ヰ璃が嫁にいくなんて淋しい」と今から泣かれかねない。
ぱたんと雑誌を閉じ、私もお風呂に入る事にした。
今日は念入りに洗って、髪もしっかりトリートメントしないと。
衿栖にもらった特別な日の前日にするパックも用意した。
なんでこんなに気合を入れているかというと、明日はお泊りするからです。

なんでも三日間ほど、憂漣さんが教会を空けるらしく、それで泊まりに来ないかと誘われたのだ。私はそのお誘いの時、食い気味に「泊まります!!!」と言ってしまって、紫鳶さんが少し照れていたのを思い出す。

だって好きな人とはいっぱい一緒にいたい。
今はもう0時を過ぎても傍にいられるのだから。
何度目かのお泊りになるけど、その度に私の心はそわそわと落ち着かなくなる。

 

 

お泊り当日を迎え、兄さんには「紫鳶さんに迷惑かけるんじゃないぞー」と快く送り出された。
私はドキドキしながらも軽い足取りで教会に向かおうとすると、透京の門を出たすぐそこで紫鳶さんが待っていてくれた。

「紫鳶さん!迎えに来てくれたんですか?」
「うん。荷物持つよ」
「ありがとうございます!でも重いんで大丈夫ですよ」
「重いなら尚更俺が持つよ」

紫鳶さんはそう言って私の手からずっしりとした手提げを受け取ると、もう片方の手で私と手をつないでくれた。

 

ドキドキしながら教会に着き、二人を夕食を作り、お風呂も済ませた。
初めて泊まった時は紫鳶さんのパジャマを借りたけど、最近は自分の寝着を持参するようにしていた。が、今日はわざと忘れてきた。

「紫鳶さん、着替え借りてもいいですか?」
「珍しいね。はい、どうぞ」

そう言ってお風呂に入る前に紫鳶さんは疑いもせず、替えのパジャマを貸してくれた。
私はそれに着替え、紫鳶さんの部屋へと戻った。

「良いお湯でした」
「ああ、おかえり。玻ヰ…リ!?」

ベッドに座って本を読んでいた紫鳶さんが私の声に反応して顔を上げると、私の出で立ちに驚いたのか、すっとんきょんな声をあげる。

「あれ?俺、下渡すの忘れたかな?」
「いいえ、ありましたよ。履かなかっただけです」

紫鳶さんから借りたパジャマの上だけ身につけた。
彼のサイズは大きいので、お尻くらいまですっぽり隠れている。
だけど、ちょっと恥ずかしいから服の裾をちょいちょい引っ張ってしまう。
なんで恥ずかしいのにこんな事をしているかと言うと、雑誌で読んだのだ。
『彼シャツに萌えない男はいない』とー!

ちょこんと、紫鳶さんの隣に座る。すると紫鳶さんはすぐ近くにあったひざ掛けを私のむき出しの太ももにかけてくれた。

「風邪引いたら困るからね」
「…部屋はあったかいし大丈夫です」

少し困った様子は彼氏というよりお母さんのようだ。
私は紫鳶さんがかけてくれたひざ掛けをどかすと、えいっと彼にしがみつきそのままベッドに押し倒した。

「えっ、玻ヰ璃!?」

紫鳶さんの胸に耳を当てると、ドクンドクンと心臓の音が聞こえた。
その音は少しずつ早くなっている気がして、もしかして紫鳶さんもドキドキしてくれたのかなとすぐ近くにある彼の顔を見るべく、顔をあげた。

「紫鳶さんもドキドキ、してくれてますか?」
「可愛い恋人のそんな姿見たらドキドキするに決まってるよ」
「ふふ、良かった」

紫鳶さんの胸に頬ずりすると、世界は反転し、気付けば紫鳶さんが私を見下ろす格好になっていた。

「あんまり可愛いことをして、俺をドキドキさせないで。心臓が持たないよ」
「嫌です」

紫鳶さんの首に腕を回すと二人の距離がぐっと近づく。
彼の綺麗な二色の瞳に自分が映る。

「もっといっぱい、私にドキドキしてください」

だって私は紫鳶さんにドキドキしっぱなしなんだから。
同じように紫鳶さんにも感じてほしい。

「俺のシンデレラには敵わないな」

紫鳶さんはそう言ってくすりと笑う。

「君の全部が愛おしいよ、玻ヰ璃」
「私もです、」

名前を呼ぼうとしたけれど、彼に唇を塞がれてしまう。
いつもより少しだけ大人なキスに私は心臓が壊れそうなくらいドキドキしてしまう。
紫鳶さんもそうだったら良いな。
彼の胸に手を当てると、その手もからめ取られてしまう。

「確認するのは禁止です」

紫鳶さんが恥ずかしそうに笑った。
その顔に今日何度目かのときめきを覚え、私は紫鳶さんをぎゅっと抱き締めた。

私のシンデレラ(カシハイ)

ガラスの靴を履いたシンデレラ。
キラキラと輝いて見えるのは、きっとガラスの靴のせいじゃない。
私の元に掻けて来た君は、とても眩しくて……綺麗だ

 

 

「あれ、歌紫歌?」

リビングを覗いてみても歌紫歌の姿はない。
今日は休日。店番もないし、せっかくだから歌紫歌とどこかへ行こうかなと思っていたんだけど、どこへ行ってしまったんだろう。
テーブルの上でお気に入りのクッションに抱きつくようにして眠るカンちゃんを見つけ、(可愛い……)としばし心奪われたが、歌紫歌を探さないと。

(どこに行っててもいいんだけど、歌紫歌って目を離せないところあるからなぁ)

カンちゃんが寒くないように、カンちゃん専用の小さなタオルケットをかけてから私は家を出た。

 

歩きながら周囲をきょろきょろと見ても、歌紫歌の姿はない。
もしかしたら隠れ家にいるかもしれないと一瞬頭をよぎるが、慌てて首を振る。
今の歌紫歌ならそこじゃないはずだ。
私はなぜかそう思った。そして、足は時計塔のある広場へと向かっていた。
噴水の周りは子ども達が駆け回ったり、カップルがデートをしていたりと賑やかで、歌紫歌はそこに一人でぽつんと座っていた。
その姿はどこか淋しそうで、子ども達を見守る視線は少しだけ優しい。

「歌紫歌!」
「おや」

名前を呼ぶと歌紫歌は私の方を向いた。

「見つけた。気付いたら家からいないから驚いちゃった」
「気分転換に散歩に来ていたんだ」
「散歩なら歩いててよ」
「でも見つけやすかっただろう?」

歌紫歌はぱちんとウィンクしてくる。
そうやって誤魔化すのは歌紫歌の癖のようなものだろう。
もしかしたらこの場所で、歌紫歌は瑠璃さんの事を思い出していたのかもしれない。
そんな事をさっきの淋しげな表情を見て、私は思っていた。
歌紫歌の隣に座り、隙間も作らないようにぴったりとくっつく。

「ねえ、歌紫歌」
「ん?」
「男の人の恋愛って、別名保存なんて」
「ん??」
「だけど女の人の恋愛って上書き保存らしいよ。
でも私には歌紫歌の前に凄く好き!っていう人がいなかったから分からないけど、衿栖が貸してくれた雑誌にはそう書いてあった」
「何の話をしているのかさっぱり分からないのだが?シンデレラ」

歌紫歌は困ったように私を見る。
その様子がちょっと可愛くて、くすりと笑ってしまう。

「だから、瑠璃さんの事思い出しても怒らないよ。それはきっと貴方にとって大切なものだから」
「……玻ヰ璃」

今の歌紫歌が、私を好きだという事は分かっているから。
愛されていると思えるから、私の心にも余裕が生まれた。

「今日はせっかくのお休みです。
だから一人でこんなところにいないで、デートしようよ」
「君は私がどこにいても見つけ出してくれそうだ」
「勿論だよ。絶対歌紫歌を一人にしないつもりだもん」
「それは心強い」

歌紫歌は眩しそうに目を細め、私を見た。
その表情に、私の胸はドキリと跳ねる。

「それでは行こうか、私のシンデレラ」
「エスコートしてね、私だけの王子様」

悪戯っぽく私が笑うと、歌紫歌も笑った。
気付けば、淋しげな表情はどこかへ消えていた。

お兄ちゃん(糸遠+カンパネラ)

最近、我が家に新しい家族が出来た。

 

「カンちゃん、今日もお魚食べたい?」
「キュイッ!」
「そっかそっか~。じゃあ、後で買いにいってくるね」
「兄さんが買いにいくとタイとか買っちゃいそうだから私が買ってくるよ」
「だってカンちゃん、タイも好きだよね?」
「キュイ!」
「タイも美味しいのは分かるけど、旬のお魚だって脂が乗ってて美味しいんだから!うまくやりくりしないと家計は火の車です」

我が家では妹が主に家事をしてくれることもあり、家計の財布は玻ヰ璃が握っている。
今まで兄妹二人で暮らしてきた我が家に新しい家族が出来たのだ。
それは歌紫歌とカンちゃんだ。
歌紫歌は時々店番や留守番をしてくれたりするし、カンちゃんは何より愛くるしい。
朝起きてカンちゃんに会ったら、まずおなかにもふもふする事が日課になってしまった。なんて幸せな日課だろう。

「カンちゃん、美味しいアジ買って来るからね。食べやすいようにたたきにしてあげる」
「キュイ~!」

玻ヰ璃の言葉にカンちゃんは嬉しそうに前足をばたばたとさせて玻ヰ璃の手にじゃれつく。玻ヰ璃も嬉しそうに頬を緩め、俺はその光景を見ながら今日も幸せだなぁと笑みを零した。

 

新しい家族が増え、家の中は賑やかになった。
それはとても嬉しいのだけれど、最近俺には悩みがある。
いや、悩みというか心配事だ。

「兄さん、今日も外へ行ってもいい?」

そう、玻ヰ璃が透京の外へ出かけるようになったのだ。
透京の呪いで、俺たちはガラスのものを身につけないで外に出るとガラスになってしまうのだ。
それが恐ろしくて、俺は玻ヰ璃に外に出ないように言ってきた。
けれど、最近きっかけがあって、玻ヰ璃は外に出るようになった。
きちんと約束事は守っているが、それでも心配してしまうのは仕方がないだろう。
店番をしながら、店内に飾っている時計をチェックする。
ふぅと小さなため息をつくと、俺の膝の上で丸まっていたカンちゃんが突然仰向けになった。

「カンちゃん、どうしたの?」
「キュイッ!」

まるでおなかをなでろといわんばかりにカンちゃんはのけぞる。
俺はそっとやわらかいおなかに手を載せて、ゆっくりと撫でていく。
ああ、心が落ち着く…癒される…
気付いたら表情は緩んでいた。

「キュイ?」
「カンちゃんには分かっちゃったのかな」

動物は人の感情に敏感だと聞いた事がある。
俺がため息をつくから励まそうとしてくれたんだろう。
そう思うとカンちゃんの事が愛おしくてたまらない。

「ありがとう、カンちゃん…お店閉めたら玻ヰ璃に内緒でタイ買ってあげるね」
「キュキュ!?」
「大丈夫大丈夫、俺のお小遣いから買うから安心して!」

鼻先をツンとつつくと、カンちゃんはくすぐったそうに前足で鼻をかく。
何をしても可愛らしい。まるで子どもの頃の玻ヰ璃みたいだ。
でも小さかった妹はもういない。来年で二十歳―つまり大人の女性になるんだ。

「でも、俺にとっては可愛い妹に変わりないんだから」

信頼していないわけじゃない。玻ヰ璃の選択が誤るとも思っていない。
だけど、心配してしまうのはもう長年の癖みたいものだ。

「ね、カンちゃん」
「キュイ!」
「よし!俺も頑張るぞ!」

玻ヰ璃が帰ってきた時に心配そうな顔を見せるより、きっと笑顔の方が安心するだろう。
だって俺はお兄ちゃんなんだから、妹を安心させてやらないと。
俺の想いが伝わったのか、カンちゃんが俺を応援するみたいに元気に鳴いた。

 

ボタン(メイヒヨ)

今日も朝食を済ませた後、情報を求めて外に出る。
すると、後ろからぱたぱたと誰かが駆けて来る足音が聞こえた。
振り返るのとほぼ同時ぐらいに彼女が俺の名前を呼んだ。

「陀宰くん!」
「瀬名、どうかしたのか?」

少し息の上がった瀬名を見て、俺を一生懸命追いかけてきてくれたんだと思うと胸が締め付けられた。

「さっき、立ち上がった時に気付いたんだけど陀宰くんの下のボタン、とれかかってる」
「え?」

言われるがまま服を見ると、確かに一番下のボタンがとれかかっていた。
気をつけているつもりだけど、やはり右側に関しては注意が疎かになっているようだ。

「全然気付かなかった。ありがとう、瀬名」
「ううん。それで良かったら私がつけようか?」
「え?」

思わず間抜けな声が出る。
目の前の瀬名は変わらずにこにこしていた。

「……頼んでもいいのか?」
「もちろん!じゃあ、一回戻ろうか」
「あ、ああ」

一人で歩いてきた道を、今度は瀬名と二人で歩く。
彼女の隣に並びたいと思っていたけれど、実際叶うと心が落ち着かない。
好きな子と二人でいるのに、気の利いた台詞の一つも口に出来ない自分に内心ため息をつきながら、俺たちの後ろをふよふよとついてくるバウンサーの存在に少しだけ救われた。
リビングに戻るともうみんな出払っていて、静まり返っていた。
ソファに腰掛け、瀬名が俺に手を差し出した。

「じゃあ陀宰くん、上脱いでもらっていい?」
「分かった」

カーディガンを脱いで、瀬名に手渡すとバウンサーが用意した針と糸を使って、瀬名は器用にボタンを縫い付けていく。
昔、授業で習った事はあったけど、俺はそんな風に上手にボタンをつける事が出来なかったのを良く覚えている。
だからまるで魔法をかけていくみたいな瀬名の手の動きに俺は感心してしまう。

「うまいな」
「手芸は得意なんだ。それに弟たちがしょっちゅうボタン取っちゃうからボタン付けは結構やるしね」

瀬名は弟妹の話をする時、一番やさしい顔をする。
その顔を見ていると、胸の奥に灯がともったような、なんだか優しい気持ちになるから不思議だ。

「はい、出来た」
「サンキュ」

カーディガンを受け取ると、ほんの僅かだけど甘い香りがする。
これはもしかして瀬名の…?
そう気付いた瞬間、顔が燃えるように熱くなった。

「陀宰くん、顔赤いけどどうかした?」
「あっ、いや…なんでも!」
「そう?それなら良いけど。じゃあ、そろそろ行こっか!」
「ああ。俺は少し部屋に戻ってから行くよ」
「そう?それじゃまた後でね」
「ああ。ありがとな、瀬名」

瀬名は満足げに笑うと、リビングを出て行った。
俺も用事はないが、瀬名に宣言したとおり、自室へ駆け込んだ。
ドアを閉めた後、俺はそれに背中を預けてずるずると座り込んだ。
手に持っているカーディガンをぎゅっと握り締め、思わずため息が零れる。

「瀬名の匂いがするのなんて、着れるわけないだろ……」

どうして同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに瀬名が良い香りなのかとかそういう事を意識してしまってもう駄目だ。

(瀬名……ごめん)

ただただ、熱くなった頬をごまかしたくて俺はカーディガンに顔を埋める。
そしてまた瀬名の名残を感じて、体温が上がる。
こんな姿、他の誰かに見られたら死ねる。
そう思いながら、俺は瀬名がつけてくれたボタンを指で何度もなぞった。

夏の終わり、いつも隣に。(響かな)

十六年間生きてきて、こんなに暑い夏は初めてだった。
真夏のうだるような暑さもようやく落ち着いた頃、私は屋上庭園で一人練習をしていた。

(といっても学園の中はいつも冷房がきいてるから暑いのか寒いのか分からなくなっちゃうんだけど)

それでも屋上庭園に差し込む日差しを感じるだけで気持ちが落ち着くから不思議だ。
しばらく一人で練習をしていると、屋上庭園のドアが開き、慌てた様子の七海くんが入ってきた。

「小日向先輩、こんなところにいたんですか」
「うん。今日は日差しが気持ち良いよ」
「ああ、それは良いですねー。じゃなくて!三時からミーティングです!」
「えっ!?」
「何度も携帯鳴らしたんですけど、先輩でなくて」

言われて見てみると七海くんから何件か着信が入っていた。
練習中は煩わしくて、音を切ってしまっていて、それで気付けなかったみたい。

「冥加部長が腕を組んで待ってます!」
「わぁ。それはいつもの事だけど…」

時間に厳しい冥加の事だからきっとお冠だ。全体ミーティングじゃなかったのがせめてもの救いというか。

「急ぎましょう!」
「そうだね」

慌てて七海くんからの着信履歴をざあっと確認しているとその中に幼なじみからの履歴を見つけた。

「あ…」
「先輩!行きますよ!」
「あ、うん!」

ポケットに携帯を仕舞い、ヴァイオリンを抱えて私は屋上庭園を後にした。
十分の遅刻をこれでもか!というくらい怒られた後、冥加とのミーティングはいつも通り滞りなく終わった。
時計を見るともう十七時近く、もう屋上庭園で連絡は難しいなと少し淋しい気持ちになりながら帰り支度を済ませた。
寮までの道を一人でとぼとぼと歩いていると、ポケットにいれてあった携帯が振動を始めた。

「もしもし」
『おう、かなで』

携帯から、響也の声がした。

『さっきも電話したんだけど、お前出ないからもう一回電話した』
「ごめんね。練習中だったから音切ってて気付かなかったの。それでミーティングにも遅れて怒られちゃった」
『お前な……携帯は着信に気付かないと意味ないだろ』
「うん、そうだね」

今までだったら私がどこにいても響也が見つけてくれた。
一緒に天音に転校してきてからも、昔と変わらず私を見つけてくれた。
離れて、初めて気付いた。響也がどれだけ大切な存在だったのか。
そうして、気付かされた。響也が好きだということに。

「ねえ、響也」
『ん?』

次の角を曲がれば寮が見えてくる。あ、今日の晩御飯は何にしようかな。全然考えてなかったけど、冷蔵庫に何残ってたかな。

「響也に会いたいな」
『―。』

うっかり零れた。晩御飯を何にするか考えていたはずなのに、どうして響也に会いたいという気持ちの方が零れてしまったのか自分でも分からない。

『んんっ…まあ、お前がそろそろそう言うと思って』

響也が咳払いをする。それとほぼ同時くらいに私の視界には見慣れた姿があった。

『晩飯、ラーメンでも食いにいかね?』

寮の前には響也がいた。

「響也!」

驚きと嬉しさが混ざり合ったみたいな声で名前を呼ぶ。
私は急いで響也の元へ駆けていくと、響也は得意げな顔をして笑った。

「どうして分かったの?」
「学校で残って練習できる時間、十七時までだろ」
「そっちじゃなくて…なんで私が響也に会いたいと思ってるの分かったの?」
「分かるに決まってんだろ。俺だってお前に会いたかったんだから」

平然と照れくさい言葉を言って、響也はくしゃりと私の頭を撫でた。

「…私はいつも響也に会いたいんですけど」
「いや、俺だって毎日会いたいに決まってんだろ」
「じゃあ毎日こうやって現れるもんじゃないの?なんで今日に限って現れるの?」
「だから!俺がそろそろかなでに会わないと限界だって頃に来てるんだよ!そもそも練習あるんだしさすがに毎日は無理だろ」
「……同じなんだ」

毎日響也に会いたいな、と考えていた。だって仕方ない事だ。今までずっと一緒だったんだから。
でも今は学校が離れ、私たちは今までのように当たり前に会う事が出来なくなった。
恋心を自覚したからなおさら響也が恋しくなる。私だけかと思ってたけど、違ったみたい。

「当たり前だろ。第一俺はお前よりもずっと……」
「ずっと?」
「……好きだったんだからな。彼女になったんだから余計会いたいに決まってんだろ」

そうだ。今の私たちは幼なじみというだけじゃない。
幼なじみだし、彼氏彼女の関係なんだ。

「えへへ」

少し照れくさくて、思わず笑ってしまう。

「笑ってんなよ。ほら、ラーメン食いに行くぞ」

響也の耳が赤いと気付いた時には、私の手は響也に握られてしまっていて、私の頬もじわじわと熱くなっていく。

「ねえ、響也」
「ん?」
「なんでもない」
「なんだ、それ」

隣にいる事が当たり前じゃなくなっても、やっぱり私の隣にいるのは響也で。響也の隣にいるのは私。

「特別だから今日はチャーシュー一枚あげちゃう」
「なんだよ、気前いいな」

もうすぐ夏も終わる。
新しい季節が来ても、変わらず私の隣にいてほしいのは響也だけなんだ。

春が来たら(ヴィルラン)

誰かを理解すること。
誰かに理解されること。
それはきっととても大切な事だったのだと今なら分かる。

魔剣に入ってしまう前の俺は、誰も信じていなかった。
隣で飯を食っている男が、いつ俺の喉元に剣をつきたてようとも冷静に対処出来ただろう。
今笑いあっている相手を次の瞬間、なぎ払うことだって出来た。
だって俺の瞳には、多分誰の顔も正確には映っていなかったから。

「あ、ヴィルヘルム!」
「んー?」

ようやくかったるい座学が終わり、大股に廊下を歩いているとアサカに呼び止められる。

「これ、どうぞ」
「なんだこれ……って前に寄越してきたやつじゃねえか」

アサカから渡された紙袋には魚の形をした…前にランといるときにアサカに半ば強引に渡されたお菓子だった。

「先週から城下のお店で期間限定で売ってるんです。嬉しくなってついつい買いすぎたので、良かったら彼女と一緒にどうぞ」
「お、おう」

買いすぎたという数ではない。おそらくアサカは俺とランの分を考えて買ったんだろう。それくらいは察せられるようになった。

「ありがとな、アサカ」
「いえいえ、それじゃ」

アサカと別れ、小脇にタイヤキが入った紙袋を抱える。作りたてなのかまだ温かい。さっさとランを見つけなければと俺は踵を返した。

ニケの手伝いをするために訪れた薬品準備室。

「ニケ、後はもう大丈夫?」
「うん、助かったよ。ありがとう」

摘んできた薬草を洗って、干すところまで手伝い終わり、ニケが折角だからと勧めてくれたので二人でお茶を飲んで一息ついていた。

「いっつもひとりでこんな事してるんだね、ニケって」

慣れない作業だったという事もあるけど、ちょっと手伝っただけで私の集中力はすっかり切れてしまった。花の洗い方にも注意点があって、汚れを払う程度で良いものや、花粉に毒素が含まれているものは洗う時に花弁は濡らさないようにするなど様々だ。ニケは花を見ただけでもう分かるようで、テキパキと私に指示を出してくれた。

「もうすっかり慣れちゃったよ。それに今日はランが手伝ってくれたおかげで早く終わったよ。ありがとう」
「困った時はいつでも言って。手伝うから」

そんなやりとりをしていたその時だった。部屋のドアが勢い良く開いた。乱暴にドアを開けたのは少しだけ不機嫌そうなヴィルヘルムだった。

「ラン、ここにいたのか」
「ヴィルヘルム!どうしたの?」
「ユリアナにお前がどこにいるか聞いた。ほら、行くぞ」
「え?え?」

ずかずかと近づいてきて、私の手を取ると強引に引寄せられた。突然の事で動揺していると、ニケはくすりと笑った。

「ヴィルヘルムが心配するから…今度からは二人一緒に来てよ」

ニケの言葉にヴィルヘルムは不機嫌そうに「はあ?」と口にする。嗜めようと思うとヴィルヘルムは小脇に抱えていた紙袋をニケの目の前に差し出した。

「一個取れ。食いきれないから」
「え?ありがとう、ヴィルヘルム」

ニケは言われるがままに紙袋からタイヤキを一つ取り出した。

「あ、まだほんのりあったかい」
「そうなの?」
「うん。ありがとう」
「言っとくけど、こんな薬品くさい場所の手伝いは俺はごめんだ!」
「ヴィルヘルム!」

ニケは一生懸命やっているのにそんな言い方はないだろう。私はきつめの声で彼の名前を呼ぶ。ヴィルヘルムはそれに構うことなく言葉を続けた。

「だけど稽古なら付き合ってやる。暇な時ならな!」

その言葉に驚いたのは私だけじゃなかった。ニケも少し驚いていたけれど、次の瞬間にはいつものように柔らかな笑みを浮かべる。

「ありがとう、ヴィルヘルム」
「じゃあな。行くぞ、ラン」
「ごめんね、ニケ!」

ヴィルヘルムに手を引かれ、薬品準備室を後にした。その後も何人かの生徒とすれ違ったけど、ヴィルヘルムは私の手を決して離そうとしなかった。
(何度繋いでも慣れない……)
誰かと手を繋ぐなんて子どもの時以来。異性は父親しか繋いだことがなかった。だからヴィルヘルムの手が他の男性に比べて大きいのか小さいのかは分からないけど、私の手をすっぽりと包み隠してしまいそうな程大きくて、手のひらは長年剣を握ってきたからだろう、少し固い。この手に触れられると私の胸はドキドキと高鳴ってしまう。
道を抜け、ようやく裏庭までやってきた。

「ここで良いだろ」

ヴィルヘルムは近くの木の幹に背中を預けるように座った。私もそれに続いて、隣に座った。今日は心地よい風が吹いている。

「ほら、これ」
「あ、そうそう。どうしたの?どこかで買ってきたの?」

差し出された紙袋に手を入れながら、私は質問する。
ニケが言った通りまだほんのり温かかった。

「アサカが買いすぎたっていって寄越してきた」
「そうなんだ」

そういえば今日の朝、タイヤキの話をしていた気がする。タイヤキのしっぽにかじりつくと、クリームが零れんばかりに入っていて驚いてしまう。

「凄い美味しい!」

クッキーやタルトといったサクサクとした食感のお菓子を食べる事が多いけど、アサカの祖国のお菓子であるタイヤキのふわふわとした生地の食感も大好きだ。

「アサカのやつ、買いすぎたって言ってたけど多分俺たちの分に買ってきたんだろうな」

ヴィルヘルムはお茶の味のクリームが入ったタイヤキを頭からかぶりつく。

「アサカらしいね。今度お礼しないと。何が良いかなー」
「甘いもんでいいだろ」
「甘いものって範囲が広すぎるよ」
「甘いもの適当に買って、またアサカの苦いお茶飲めばいいだろ」
「ふふ、そうだね」

ヴィルヘルムは変わった。以前よりよく笑うようになった。そして何より私以外の人にも関心を持つようになった。
以前までのヴィルヘルムなら、アサカにもらったタイヤキをニケに分けてあげる事なんてしなかったし、稽古に付き合うなんて言わなかったと思う。アサカについても、言葉通りの意味に受け取って、タイヤキをくれた意味なんて考えなかっただろう。
ヴィルヘルムのそういう変化が私は凄く嬉しい。

(なんて思ってるなんて言ったら、またお母さんみたいだってユリアナに言われちゃいそう)

「なんか嬉しそうだな」
「ヴィルヘルムに友達が出来たから嬉しいよ」
「な、友達なんて…!」

慌てて否定の言葉を口にする。それが少し可愛くて私はまたこっそりと笑いながらタイヤキを頬張った。

タイヤキを食べ終わると、ヴィルヘルムが私の手をそっと握る。

「お前の手は、体と一緒で強く握ったら折れちまいそうなくらい細いな」
「そんな簡単に折れないよ。それにそこまで細くないよ、普通だよ」
「普通なんてどうだっていいんだよ。俺がそう思うのはお前だけなんだから。お前以外、関係ない」
「………」

私にとって、ヴィルヘルムが唯一であるように。
ヴィルヘルムにとっても、私が唯一だと―そう言っているみたいに聞こえた。

「…そっか。でも、大丈夫だよ。もう少しくらい強く握ったって、私は折れないんだから」

鍛えてるしねと笑って見せると、ヴィルヘルムは何も言わないで私の頭を撫でた。
その手を、私は好きだと思った。

「それにしてもここの風は気持ち良いな」
「うん、そうだね。港の潮風も好きだけど、ここの風はなんだか優しく感じる」

まるで私たちを守るみたに、そっと抱き締めるみたいに吹く風。これはキオラ様の魔法の力なのかな、それとも…

「ねえ、ヴィルヘルム」
「ん?」
「春になったら、ピクニックに行こう。お弁当作るからそれを持っていこう。きっと楽しいよ」
「遠征みたいなもんか?」
「ピクニックはね、お弁当を持って景色の良い場所に行くの。それだけ。遠征とはちょっと違うかも」

遠くに行くのは一緒だけど。

「どこだっていいぜ。お前と一緒なら」
「うん、行こうね。絶対」

春が来たら、その時はきっと今よりももっと世界は優しくなっている気がする。

長い夜(累ツグ)

私の生活範囲は、職場であるフクロウと現在の住居である寮、巡回する書店。
そして――

恋人である累の部屋。

 

「ツグミ、カフェオレが入ったよ」

累のベッドでシーツにくるまって彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、私の大好きなカフェオレを入れた累はご機嫌な様子で戻ってきて、私の隣に座る。

「ありがとう、累」

受け取ったカップには、並々とカフェオレが入っていて私はくすりと笑う。

「作ってくれたのは嬉しいけど、こんなに沢山飲んだら眠れなくなっちゃうわ」

ここ最近、和綴じ本が書店に普段より多く仕入れられ、その確認に追われたり、雑務だなんだと慌しい日々が続いていて、累とゆっくり過ごす時間が取れなかった。
明日は仕事が休みなので、今夜は累の部屋に泊まることになったのだけれど、
夕食にカツレツを二人で食べに行き、お腹が膨れて満足した気分で累の部屋に入った途端、ベッドに引きずりこまれた。
食事をした後っていつもより…おなかが出ていないかしらと気になってしまうので、せめて消化してからと抵抗してみたものの「僕も同じだよ」とシャツを脱いだ累のおなかを見て「うそつき」と呟くくらいしか言うことができなかった。

「だって今夜はまだまだ寝ないんだから」

累はなんでもない様子でそんな事を言って、自分の分のカフェオレを一口飲む。

「寝ないって……これから何かするの?」

時刻はもうすぐ11時。
私が小首をかしげると、累はにこりと笑った。

「せっかく久しぶりにツグミとのんびり過ごせるんだからもっと君を味わいたいよ」

累の手が、私の腰をそっと撫でる。
それで彼の言いたいことがわかって、あっという間に頬が熱くなる。

「だって、今さっき…!」

「うん、そうだね。でも足りないんだ」

累の熱っぽい視線から逃げるようにカフェオレに視線を落とす。
カフェオレに罪はない。
そして何より美味しいけど、これを飲みきってしまったら累の言葉に頷いたことになるのだろうか。
少し温度が下がったカフェオレが早く飲んでくれと言っているようだ。

「ねえ、ツグミ」

「累…」

私の頬をゆるりと撫で、口付けを落とす。

「それ、飲み終わったら一緒にお風呂はいろうね」

「……駄目って言っても、聞いてくれないものね」

求められて嬉しくないわけないのだ。
本当に嫌がっていたら累はきっと求めてこないだろう。

一緒にお風呂に入る事はまだ恥ずかしい。
彼に求められる事だって恥ずかしい。

でも、累のことが大好きなのだ。

「仕方ない人」

私は累に向かって微笑んでから、残りのカフェオレを飲み干した。

今夜はとても長い夜になりそうだ。

 

私と貴方の距離(エイフラ)

あの軽薄な男を見かけた。
その隣には見慣れない女性―多分、狼の一族だろう、が立っていた。
二人の距離は友人とは言いがたく、どちらかといえば恋仲の男女の距離だろうと恋をした事がない私にも分かってしまった。

(本当に軽薄な男……お兄様の友人じゃなければ付き合う事なんてなかったわ)

エイプリルが立っている場所は私が行きたいお店のすぐ傍だ。
迂回して行こうかと思ったが、なんでエイプリルのせいで私が遠回りをしなければいけないのかと考えたら少し苛立った。
だから私は気にしない顔を作って、その道を通る。
視線は決してあの男にはやらない。だけど、視界の片隅で、あの男が私を捉えたことに気付いてしまった。

「やあ、フランシスカ」

何事もない声で、私の名前を呼んだ。
私はその声に気付かないふりをして通り過ぎた。
追ってくる気配はない。
当然の事だろう。あの男が私を追いかけてくる理由なんてどこにもない。

目的の店に逃げるように入ったが、自分が何を買いに来たのか一瞬頭から飛んでしまう。
ああ、そうだった。
アリアが編み物をしたいというから一緒にするために糸を買いに来たんだった。
気を取り直して、店内に飾られている糸たちを物色していく。
空のように綺麗な水色の糸が欲しいけど、なかなか見つからなくて。
仕方ないから桃色の糸と、朱色の糸を選んだ。
買い物を終え、店の外に出てすぐさっきの場所に視線を遣る。
エイプリルの姿は消えていて、ほっと息を吐いた。

「やあ、フランシスカ。偶然だな」

「……!」

さっきの場所にはいなかったけど、エイプリルは店の入り口の横にもたれるようにして立っていた。
軽薄な笑みを浮かべて、私を見下ろしていた。

「待ち伏せなんて悪趣味ね」

「おや、偶然だったんだけどな。
でも、待ち伏せだと思うのであれば、君はさっきの呼びかけに気付いていたんだろう?無視をするなんて悪趣味だな」

かちんとする物言いで返され、私はエイプリルを睨みつける。

「私に何か用でもあるの?さっさと先ほどの女性を追いかけた方が良いのでは?
貴方みたいな軽薄な男を相手にしてくれる女性なんてなかなかいないんじゃないかしら」

まくしたてるように言葉を吐くと、エイプリルの表情がなぜか緩んだ。

「生憎、意中の女性がつれなくてね。それ以外の女性には興味がないんだよ」

「あっそう」

さっきまで他の女性といたくせに何を言っているんだかと内心呆れつつ、私は歩き出した。
なぜかエイプリルも私の隣を歩く。

「どうしてついてくるの」

「オルガに用事があるということにしよう」

「今、お兄様は外出しているわ」

「ふむ。それは困ったな」

「ええ、また今度お兄様がいる時に来ればいいわ。ごきげんよう」

会話を終わらせ、さっさと屋敷に帰ろうとすると、突然エイプリルが私の手を取った。

「君が家に戻るまでの時間くらい、私にくれてもいいだろう?」

エイプリルの手が妙に熱くて、その熱が私に伝染したみたいに頬が熱くなる。

「貴方って本当に軽薄ね」

「意外と一途な面もあるということを君は知っているんじゃないのかな」

「さあ、知らないわ」

私には本当に分からないもの。
この軽薄な男が、私をどう思っているのかなんて。
想いははっきりと言葉にしないと伝わらないのよ!とアリアが言っていたが、その通りなのかもしれない。

でも、もしも素直にエイプリルが想いを口にしたとしたら?
私は、それになんて答えるの?

「貴方の手って……見かけによらず温かいのね」

「見かけによらずって…君の手は少し冷えているからちょうどいいだろう」

「……ええ、そうね」

素直になれない私と貴方には、これくらいの距離がちょうどいいの。
手が触れ合う距離、それ以上は近づいてはいけない。
恋仲の距離には、なれない。
だけど、友人の距離よりは近くにいたい。
この気持ちを、なんといえばいいのか。まだ知りたくない。

私はそっとエイプリルの手を握り返す。

軽薄な男が純情な男のように頬を染めたことには気付く余裕はまだなかった。

もう一度、(メイヒヨ)

深呼吸をする。
教室のドアをスライドさせ、開くとクラスメイトたちが思い思いの時間を過ごしていた。
おはようと投げかけられる言葉に俺も応え、自分の席へ着く。
彼女は……まだ来ていなかった。
ほっとしたようながっかりしたような気分になりながら、ホームルームまであと少し時間があることを教室の前にある時計で確認すると、俺は机に突っ伏した。

それから少しして先ほど俺がドアを開けたのと同じように音が響くと、彼女の声が聞こえた。ぴくりと反応してしまった肩を誰にも見られていないようにと祈りながら俺は顔をあげて、欠伸をかみ殺す。

「おはよう、陀宰くん」

「ああ、おはよう。瀬名」

瀬名はにっこりと微笑む。
その笑顔を早く見たかったくせに、いざ目の前にすると落ち着かない。
時間なんてもう確認する必要ないのに、再度時計に目を遣る。

「今日、いつもより遅いんだな」

「え?」

瀬名の表情が驚いた顔に変わる。聞いてはいけない事だったのだろうかと内心ひやりとするが、瀬名は気にした風もなく

「朝から妹たちが喧嘩しちゃって、その仲裁してたら家を出るの遅くなっちゃったんだ。トモセくんにも怒られちゃうし、朝から大変だったよ~」

トモセというのは、瀬名の幼なじみで登下校を共にしているようだ。
時折クラスまで迎えにくる姿を見て、クラスメイトたちは「瀬名の彼氏?」と邪推するが、もう否定しなれた口調で「そんなんじゃないよー」と瀬名は笑う。
それが本当なのか、嘘なのか。俺はそんな事さえもまだ確認できずにいた。

「それは大変だったな」

「うん。あ、でも見て見て。来る途中に見かけたの」

瀬名はバングルを操作して、何かのデータを俺に送ってくる。
なんだろうと思いながらデータを開くと、それは野良猫だった。
まるまると太った三毛猫が眠たそうに大きな欠伸をしていた。

「まんまるで凄く可愛かったんだ」

「…これは、確かに」

猫好きとして心をくすぐられる。
遅刻しそうになりながらも猫を見て、撮影せずにいられなかった瀬名を思い浮かべるだけで笑みが零れそうになる。

好きだ、と自覚してから学校に通うことが前より楽しくなった。
隣の席に瀬名がいるだけで、一日を幸せに過ごせると思っているなんて知られたら恥ずかしくて死んでしまいそうだけど。

瀬名の笑顔につられて、気付いたら俺もよく笑うようになっていた。

 

 

 

「……ああ」

夢を見ていた。
異世界配信に巻き込まれる前、普通の高校生だった俺と、隣の席に座るクラスメイトである瀬名。
今、ここにいる瀬名は俺の事をおぼえていない。
そして、あの頃と違って、ここにいる瀬名は笑う事より沈んでいる事の方が多い。
それは当然のことだ。こんなわけのわからない場所で、男だけに囲まれて生活し、わけのわからないドラマを演じさせられるんだから。
俺の我侭で……瀬名を巻き込んでしまった。
だけど―

深呼吸してからドアを開く。
まるで学校に通っていた時のように。

「あ、おはよう。陀宰くん」

「ああ、おはよう。瀬名」

ドアを開けるとちょうど部屋から出てきた瀬名と出くわす。
階下に降りたら顔を合わせると思っていたから少し油断していた。

「なんだか良い香りがするね。パン焼いたのかな」

「言われてみれば確かに」

「焼きたてのパンって美味しいから好きだな、私」

瀬名はそう言って、昔のように笑った。
その笑顔に会いたくて、俺を思い出してほしくて、俺は……

「ああ、俺も好きだ」

「ふふ、だよねー。イチゴジャムとかあるかなー」

「今日なくても明日になったら獲端が作ってそうだな」

「ああ、確かに」

こんななんでもない時間が泣きたくなる程求めていたものだったなんて。
感傷を誤魔化すみたいに手のひらを強く握り締める。

 

瀬名に気付かれないように、俺はこっそりもう一度深呼吸をした。

 

何者でもない私(アドニス編・山条×市香)

この人の傍にいたら、私は何者になってしまうんだろうかーー
「よう、嬢ちゃん」

廊下でばったり山条と出くわした。
探りをいれるために足繁く彼の元へ通っていたのはつい最近の出来事だ。
けれど、私はある日を境にそれをやめた。
もう十分親しくなった…もとい、山条が裏切っていないであろう事は確認できた。
だからこれ以上関わらなくて良いだろうと判断した。

「どうかしたの」

努めて冷静な声を出したのに、山条はそれが面白くなかったのか眉間に皺を寄せた。

「おなかが痛いとか?」
「なんでそうなるんだ」
「不機嫌そうな顔してるから」
「腹痛いくらいで顔に出すわけねぇだろ」
「そう、それなら良い。それじゃ」

山条に別れを告げ、横を通り過ぎようとすると腕を強く引かれた。

「なに?」
「美味い大吟醸が手に入った。今夜どうだ?」
「………」

以前、山条に飲ませてもらった日本酒は美味しかった。一杯だけのつもりがついつい飲み過ぎてしまった。

「飲むだろ?」

山条と飲むのはストレス発散になる。
そしてちょうどお酒を飲みたいとは思っていた。
でも、これ以上山条に深入りしては……

ぐるぐると頭のなかで考えが散らばっていく。
そんな私をみて、山条は鼻で笑った。

「つまみ作って持ってこいよ。んじゃ、後でな」

「山条!私はまだ行くなんて言ってない…!」

山条はそれ以上はなにも言わず、手をひらひらとさせて去っていった。

行かなければ良い。
私は約束なんてしてないのだから。

それなのに。
私はどうして簡単につまめて、日本酒にあいそうなものをお盆に載せて持っているのか。
山条の部屋の前に着き、どうして自分はここに来てしまったのかと一人ため息をつく。

「人の部屋の前で辛気くさいため息ついてんじゃねぇ」

「山条…!!」

「入れよ。お、美味そうじゃねえか」

ドアを大きく開け、私を招き入れると山条は定位置に座る。
私もその正面に腰を下ろした。
テーブルの上におつまみをおくと、山条はすぐさま日本酒の瓶を得意気に見せてきた。

「…!それは!!」

「獺祭だ。良い酒だろう?」

「初めて飲む」

獺祭は日本酒に詳しくない人間でも一度は耳にしたことがある名前だろう。
私も一度は飲んでみたいと思っていたお酒だ。

用意されていたグラスになみなみと注がれる獺祭を見つめていると、わくわくとした気分になる。
山条は手酌でつぐとグラスを持って、私に向かって掲げた。

「お疲れ」

「お疲れ様」

軽くグラスを合わせると私はグラスにそっと口をつけた。
その瞬間、ふわっとした花のような香りがした。

「…!おいしい」

思わず言葉にしていた。
飲みやすくて、ついつい飲み過ぎてしまいそうな味わいだ。

「俺はもう少し辛くてもいいけど、美味いな」

山条も満足げにグラスを傾け、私の作ったおつまみを食べていた。

二人で他愛のないことを話しながらもう少し…もう少しだけ…と気づけば三杯以上飲んでしまっていた。

こんな風にお酒を飲んでいるとここがどこだかわすれてしまいそうになる。
アドニスの本拠地だなんて、思えないくらい居心地が良くて、お酒の力もあって、少しずつ蓋をしていた感情が顔を除き始めてしまう。

「嬢ちゃん、意外と家庭的なんだな」

納豆がつまった油揚げにかぶりついて、山条はそんなことを言う。

「ここに来る前は料理…好きだったから」

「へぇ」

そう、香月の好きなものを作ってあげたくて、男の子だからお肉が好きで、でも野菜も食べないと栄養が偏るし…とよくお弁当の中身に悩んだのを思い出してしまった。

「嬢ちゃん」

山条に呼ばれて、はっとする。
今、何を考えてた?
蓋をした記憶は、一度思い出すと堰をきったように次から次へと溢れていく。

口を聞いてくれなくなって、どうして良いか悩んだ日々。
でも私が作ったお弁当はいつも綺麗に平らげてくれたこと。
ギターを練習する香月を注意したら、物凄い剣幕で怒られてしまったこと。
あの子がどれだけ一生懸命音楽に向き合っていたのとか。
もっともっと一緒にいて、香月がどんな大人になるのか、夢を掴む姿をこの目で見守りたかった。

「さんじょうのせい」

「は?」

私は今どんな顔をしているのか分からない。
だけど、目の前にいる男のせいで記憶は容易く開かれた。

私は悔しくて、我慢できなくて山条の脇腹に手を伸ばした。

「!!!このやろ…!!!」

すっかり油断しきっていた山条が私を引き剥がそうとしても、もう遅い。
私は全力で脇腹をくすぐりにかかった。
普段の山条の仏頂面しか知らない人は彼が脇腹をくすぐられただけでこんなに表情を崩すとは思うまい。
後ろに後ずさって逃げようとした山条を追ったら、気付いたら山条を押し倒すような格好になっていた。

「…その体勢は都合の良いようにとるけど良いんだな?」

「この体勢は私の方が優位であることに変わりない」

山条の瞳が私を見上げている。
意外ときれいな瞳の色をしていることに気づいてしまった。

「はぁ」

くすぐり疲れたのか、私はくらりと重力に逆らえず、山条の胸に顔をおろした。
どくどくと山条の心臓の音が聞こえる。

「どうしてさんじょーはあったかいの」
「なんだその質問」
「どうしてさんじょーはおいしいお酒ばっかりのんでるの」
「そりゃ美味い酒飲んだ方が気分良いだろ」
「…たしかに」
「おい、嬢ちゃん」

山条の手がそっと私の頭に触れた。

「こどものころ、両親が弟を褒める時そうやって頭をなでたの」

「へぇ」

「わたしもなでてほしくてがんばるんだけど、両親はわたしに興味なくて、なでてくれないの」

「ふぅん」

適当な相づちを打ちながらも山条の手は私の頭を撫で続ける。

「香月のことうらやましいなっておもうこともあったけど、…それよりもだいすきな気持ちがつよかったの」

香月のことが大好きだった。
一番守りたかった私の弟。
私のたった一人の弟。
それなのに、私のせいであの子の未来を奪ってしまった。

「ふぇっ…かづきぃ……」

視界がぼやける。
生暖かい滴が山条の胸を濡らしていく。

「おねーちゃんは…かづきがいたからおねーちゃんだったのに」

香月を失って、大事な人を失って…
星野市香は死んだ。
今の私は過去の私ではない。
私は……

「嬢ちゃん」

山条が私を呼ぶ。ぼやけた視界にうつる山条は少し滑稽に見える。
頭を撫でていた手が後ろに回り、強く引き寄せられた。
ぼやけていた視界が驚きでクリアになる。

「ーっ!」

山条は私の唇を塞いでいた。
どれくらいの時間だろうか。数秒にも満たない口づけだったのだろうが、私には酷く長く感じられた。

「俺はぼんきゅっぼんで色気のある女がタイプなんだが……まぁ、嬢ちゃんみたいな女も嫌いじゃねぇ。いつの間にかな」

「何をいって…」

「過去のお前なんか俺は知らねぇ。お前だって過去の俺を知らねぇのと一緒だ」

経歴や出来事は知っているが、そういうことを言っているのではないだろう。

「大人しく絆されてろ」

絆されたわけでもない。
ましてや恋なんかでもない。
だけど。

山条の隣に安堵している自分がいた。
だから通うのをやめたのだ。
私が作り出した私を壊されたくなかったから。

「さんじょ…」
二度目のキスはさっきと違った。
私は拒むのも馬鹿らしくなって、それを大人しく受け入れた。
山条の隣にいたら、私は何者になってしまうのか。
昔のような星野市香になるの?
それとも今の私のままでいられるの?
どうなるのか、酷く怖いのに
私は山条の手を強く握ったー

スタートラインの、向こう側へ(吉市)

「吉成さんさ、姉ちゃんとはどうなってんの」

目の前でハンバーグを頬張る香月くんは今日の天気を訪ねるテンションで俺に問いかけた。
いや、香月くんから今日の天気の話題なんて振られたことないけど。

「ど、どうとは?」

まさか実の弟にそんな話題を振られると思ってなかったので、軽く動揺すると香月くんは俺をちらりとみて、ハンバーグをもう一口、口に放り込んだ。

「最近バンドの練習で忙しいからあんまり家で晩ごはん食ってないんだよね、俺」

「! それだったら今日…!」

「市香は同僚と女子会」

「あっ、そうっすか…」

x-day事件が収束し、少し日が経った。
事件が終われば、星野さんや探偵事務所の皆さんの監視及び警護の任を解かれ、新しい任務が待っている。
さしづめ、今の俺の任務は新人を育てあげることだ。
毎日毎日、口が達者な後輩と戦いの日々を繰り広げており、だーいぶ疲れ果てていた。
疲れには肉!!!と思い、香月くんに連絡をし、今日に至るというわけだ。
年齢は離れているけど、香月くんと話していると本当に気が楽だ。
だけど、彼があの事件で負った傷を思うと時々胸が苦しくなる。
本人には言わないけど。
たまに彼の話題を出す香月くんに気にする風でもなく相づちを打つくらいしか俺にはできなかった。

「吉成さんと飯食うの、楽しいから良いけどさ」

「香月くん…!!」

「でも、今日吉成さんと飯いくって言ったら姉ちゃん驚いてたぞ」

「星野さんが?」

「忙しいのかと思ってたって」

「忙しいといえば忙しいけと人並みの休みは!!!」

「俺に言ってもしゃーないだろ」

「…連絡してみるっす」

「ん。」

香月くんに背中を押される形で、翌日星野さんに連絡を取ってみた。

『昨日は香月がごちそうになったみたいで、ありがとうございました』

『いえいえ!香月くんに目一杯愚痴聞いてもらっちゃったんで!』

『今度良かったらご飯食べにきてくださいね。
吉成さんの好きなもの作りますから』

きっと深い意味なんてないんだろう。
弟が世話になったからお礼を…とか、お腹を空かせすぎてぶっ倒れたのを見たことがあるから心配になる…とか。
きっと全て親切心から来るものだろう。
でも、そういう優しさがじんわりと心に沁みるのだ。

ちゃっかり夕食をご馳走になる約束も取り付け、何往復かメッセージをやり取りした後、スマホをポケットにしまう。

どうやって距離を縮めたらよいのか分からないなんて。
恋愛初心者みたいだな。
ふとそんな事を考え、思わず苦笑いを浮かべた。
いい人止まりで終わらないためには、どうすれば良いのかなんて考えまくって行動できなくて、想い人の弟に背中を押されてしまうとは。
もう少し男を見せなければいけない。
だって、駄目だったら次…とは思えないから。

 

 

「お邪魔しまーす!」

仕事終わり、星野さんちへ足取り軽く向かう。
インターホンを鳴らすと、エプロン姿の星野さんが俺を出迎えてくれた。

「エプロンって新鮮っすね!」

「香月に出てってお願いしたんですけど動きたくないって言って出てくれなかったんです。ちょっと照れくさいですね」

オレンジ色のシンプルなエプロンだけど、なんかこうぐっと来るものがある。
きっと香月くんは星野さんが出迎えた方が俺が喜ぶと思ったのだろう。
グッジョブすぎる…!
照れくさそうにエプロンを外す星野さん。
通されたリビングのテーブルには豪勢な食事が用意されていた。

「えー!すっごいどれもめっちゃ美味しそう!!」

「遠慮しないでたくさん食べてくださいね」

「はいっ!いただきまーす!」

両手を合わせてから早速料理に手を伸ばす。まずは唐揚げだ。一個まるまる口に頬張ると揚げたてだったらしく、じゅわっと脂がはじけた。はふはふしながら食べる俺を星野さんはにこにこと見つめていた。

「この唐揚げめっちゃくちゃ美味しいっす!」

「良かった。どんどん食べてくださいね」

「姉ちゃん、そんなに見てたら吉成さん食いづらいだろ」

俺の斜め前に座って無言で食べていた香月くんが星野さんをたしなめた。言われて気づいたのか、星野さんは頬を赤らめると「ごめんなさい、あんまり美味しそうに食べてくれるから嬉しくてつい…!」と申し訳なさそうに笑った。

「見てても全然問題ないっす!星野さんが俺のこと見つめる機会早々ないでしょうし、じゃんじゃんみてください!!」

自分でいって、ちょっと寂しくなったが星野さんが楽しそうに笑ってくれたのでほっとした。

美味しい料理をご馳走になりながら、他愛のない話をしていると、香月くんが俺の方をじっと見つめた。

「どうかした?香月くん」

「いや、吉成さんさ。どうして姉ちゃんのことは星野さんて呼んでんの?」

「え?星野さんは…星野さんだから」

きょとんとした顔をした俺が気に入らなかったのか、香月くんは舌打ちすると言葉を続ける。

「そうじゃなくて。俺も星野さんだけど?」

そこでようやく気づいた。じれったい俺の背中を蹴っ飛ばすべく、香月くんがその話題をふってくれたことに。

「星野さん!!」

「は、はいっ」

勢いよく名前を呼ぶと、星野さんは驚いたのか、目を丸くした。

「もし良かったらなんですけど、市香さんと呼ばせて頂いても…!?」

「えと…市香さん…」

「駄目…っすよねぇ」

難色を示した表情に慌てて逃げようとすると星野さんは慌てて手を振って否定してくれた。

「そうじゃなくて!その、吉成さんの方が年上なのに、さん付けってちょっとこそばゆいなって」

「じゃあ市香ちゃんで!!!」

ここがおしどころだ!!と俺は語気強めで伝えると、星野さんはクスッと笑った。

「はい…わかりました」

「中学生かよ」

ぼそりと呟いた香月くんの言葉に、自分でもそう思うと内心苦笑いを浮かべるが、名前を呼ぶ許可をもらえた事がとてつもなく嬉しくて、俺の頬は思いっきり緩んでいた。

 

その後、お土産に買ってきたケーキを食後のデザートとしてみんなで食べ、九時を過ぎた頃に退散することにした。

「今日はご馳走さまでした!もうめちゃくちゃ美味しかったっす!」

「良かった。香月が吉成さんは肉を欲してるっていうからお肉多めにしちゃいました」

本当に香月くんがぐっじょぶすぎて、今度また美味しいものをおごらねば…!

「あの、今日のお礼に今度食事でもどうっすか?」

「食事?」

「食事でもなんでも!つまりこれはデートのお誘いっす」

思いきって口にしてみると、星野さんの頬が少し赤らんでみえた。

「…楽しみにしてます」

「!!!」

星野さんははにかむように微笑んだ。

「また連絡します」

「はい。仕事無理しないでくださいね」

「了解っす!」

名残惜しいが、玄関にこれ以上居座っては帰れなくなりそうだったのでゆっくりとドアノブを引いた。

「それじゃあ、おやすみなさい。市香ちゃん」

さりげなく呼んでみたが、なんだか自分の頬が熱い。これくらいで照れるとは思わなかった。

「おやすみなさい、吉成さん」

星野さんも俺が照れてるのに気づいたのか、少しだけ照れくさそうに笑って俺を見送ってくれた。

 

外に出ると心地よい風が吹く。

思いきり伸びをしてみると、いつもより力がみなぎってるような気がした。

LEAFを開いて、今別れたばかりの人の名前を早速表示する。

「なんておくろっかなー」

とりあえず次。

次に会う時には今日より近づけるように。

いつか、君のかけがえのない人になるために。俺は一歩踏み出した。

幸せな暑い日(土岐かな)

「あっついわー」
高校生活最後の夏の大会も終わったある日。部室のソファで寝そべっていると何度目かのため息をつく。

今年の夏は暑さが厳しい。
八月下旬になっても、真夏のような暑さを維持していて、エアコンのない場所で生活するなんて考えられないというのに、運悪く部室のエアコンが壊れてしまった。芹沢が「今日の午後には修理に来てくれるそうですから我慢してください」と冷たい言葉を投げ掛け、自分はエアコンの効いた会議室でなにやら打ち合わせをしてくると言って出ていってしまった。

「なぁ、小日向ちゃん。暑くない?」
「暑いですけど、もう少しの辛抱ですし」
部室にいた小日向ちゃんに言葉を投げ掛ければパタパタと手で自分を扇ぎながら苦笑いされる。

「そうだ、土岐さん。髪しばったら涼しくなるかもしれませんよ」
「そこまで変わらへんよ…」
「やってみないと分かりませんよ」
小日向ちゃんはたまに強引だ。
普段はふわふわとした子が、突然押しが強くなるのは実は割とドキリとする。
小日向ちゃんはソファに寝そべってる俺を座らせ、背後に回るとブラシを使って、髪をとかしはじめた。
人に髪をとかしてもらうってなんだかくすぐったい。それが好きな相手なら尚更。
「土岐さんの髪、サラサラですね」
「そう?」
「羨ましいくらい。いえ、本音を言うと私は少しくせっ毛なので、大分羨ましいです。」
「ほな、今度行ってる美容院連れてってあげるわ」
「えっ…それは…ぜひ」
「ん、了解」
髪をとかし終わると、次に小日向ちゃんの手で俺の髪をまとめ、ゴムかなにかでひとつにまとめてくれた。
「ありがとう。気持ち、涼しくなったわ」
「そんなにすぐ効果現れます?」
「気分や気分」
小日向ちゃんが自分のためになにかしてくれるだけで涼しくなれと願えば涼しくなるのだ。そんなものだ。
結んでくれた部分にそっと触れてみると、飾り気のないゴムでまとめてくれたのかとおもいきや、なにやらほわほわとした手触り。
「小日向ちゃん、これは?」
「ゴムかなかったので、シュシュです」
「…ま、ええか」
彼女の頭についてるのと同じものだったら面白い。きっと芹沢がそれを見たらうんざりとした表情をするんだろうと考えるだけで愉快だ。
「早く午後になれば良いですね」
ぱたぱたとぬるい風を送るように彼女の手が俺の前で揺れる。
「さっきまではそう思ってたけど…今はもうちょいこのままでもええかな」
小日向ちゃんの手を掴む。
この手はうちわの代わりになるためじゃなくて、ヴァイオリンを弾くためにあるのに。なんて贅沢な真似をさせてるんだ。
「それよりも手で仰いでくれるよりも、小日向ちゃんのひんやりした手で触れてくれる方がずっとええわ」
「…! それは恥ずかしいのでちょっと…」
気温のせいじゃないだろう、彼女の頬が赤らんだのは。
こんな暑くてうっとおしい日を幸せに変えてくれるのだ、小日向かなでという子は。
もう少しだけ夏が続けば良いと願いながら、小日向ちゃんの手にそっと指を絡めた。
手は、振り払われることはなかった。

おいなりさん(小狐丸×さにわ)

私が本丸に来て少し経ったある日、やってきた小狐丸。
短刀たちに紛れて一緒に遊ぶ姿を縁側からぼんやりと眺めていると、視線に気付いたのか、小狐丸がこちらを向いた。
輪から抜けると、小狐丸は私の隣にそっと腰掛けた。

「ぬしさま、どうかされましたか?」

「小狐ちゃん、おっきいなぁって」

「そうでしょうか。いや、そうですね」

「大きいけれど、小狐丸なんでしょ?」

「そうです、よく覚えててくださいました」

インパクトのある登場だったから忘れられない。

「いや、ずっと短刀たちばっかり来てくれてたある日、おっきい狐さんが現れて小狐丸なんて名乗るから」

「遠慮ですよ」

「あんまり遠慮ばっかりしてたら駄目なんだよ。
遠慮してると欲しいものも手に入らないんだから」

「ぬしさまが欲しいものとは?」

「昔欲しかったのは有休かな」

「ゆうきゅう…?」

小狐丸は聞き慣れない単語に小首をかしげる。そういう所作がいちいち可愛く見えて、小狐丸という名前が似合っているなぁなんて考えてしまう。

「昔欲しかったものはさておいて、それでは今欲しいものは?」

「今…うーん、そうだなぁ」

目の前に広がる光景にもう一度目をやる。
今は楽しげに駆け回っている短刀たちも一度戦いになれば、目付きが変わる。
私が命じて、彼らは戦いに出る。そう、分かっていても。
出来るならいつまでも楽しそうに皆で遊んでいてほしい。
なんて身勝手な願いが浮かんだ。

「小狐ちゃんは?」

「私は…そうですねぇ」

紅い瞳が、私を見つめる。
小狐丸の紅より綺麗な色を、私は知らない。

「美味しいおいなりさんでしょうか」

小狐丸の言葉にほっと気が緩む。

「やっぱり狐さんだねぇ。じゃあお昼はおいなりさんにしよう」

「それは良いことです。ぬしさまはよく分かってらっしゃる」

「ん。よくわかってる」

戦わなければ、平穏なんてなくなってしまう事も。
でも、出来る限り皆に笑顔でいて欲しい気持ちも捨てられない。
だから自分が出来る限りの努力は惜しんではいけないことも。

「美味しいおいなりさん作るね」

「楽しみにしています」

耳なのか、髪の毛なのか未だに分からない小狐丸の耳(?)にそっと触れる。
後でブラッシングをしてあげよう。
大きいけれど、私の可愛い小狐ちゃん。

考えている事が伝わったのか、小狐丸は優しげに微笑んだ。

 

眠れない夜(TOE2・ルドエル)

「ルルー、ルルー」

ルルの姿を探して、あたりをうろつく。
いつも眠る時、ルルは必ずと言っていいほどエルのベッドにもぐりこんで来る。
今日もそうしてくれると思ったのに、眠ろうとベッドに潜り込んでもルルはやってこなかった。
猫は自由な生き物だから、放っておいたら戻ってくるだろうと思って目を閉じたけど、やたらと時計の音が気になって眠れない。
だから観念して、ルルを探す為に部屋を出た。

 

そして、うろうろしていると、ルドガーの部屋のドアが開いた。

「どうかした?エル」

「ルドガー」

もしかして眠っていたのかも。
なんだかいつもよりとぼけた顔をしているルドガーを見て、ちょっとだけ申し訳なくなる。

「ルルがいなくて…さがしてたの」

「ルルが?」

「エルは淋しくないけど!もしかしたらルルがどこかで困ってたら可哀想だと思って!」

そう、エルは淋しくなんてない。
エルは大人だから一人で眠る事なんて怖くないし、淋しくなんてない。

「ルルならこっちにいるけど」

「え!?」

ルドガーが部屋の中を見せるようにドアを大きく開く。
覗き込んでみると、ベッドの上にルルの姿があった。
「なぁーん」といつもの鳴き声を上げた。

「ルルったら…」

「連れて行くか?」

「……大丈夫」

ルルはルドガーの猫だもの。
たまにはルドガーと一緒にいたいのかもしれない。
今日みたいなやけに静かな夜は、好きな人と一緒にいたいのかもしれない。

気付いたら服の裾をぎゅっと握っていた。

「エル」

ルドガーは私の名前を呼ぶと、握っていた私の手をそっと開かせ、自分の手を重ねた。

「俺とルルと一緒に寝るか?」

「えっ…」

思いも寄らない言葉に驚いて、ルドガーを見つめる。
ルドガーはふっと小さく笑うだけ。

「…ルドガー、淋しいの?」

「どうだろう。ただちょっと寝つけないな、とは思ってた」

普段、あまり口数が多い方ではないルドガー。

「もしかして、てはいしょの絵が気に入らなくて?」

「かもな」

自分で話題に出したけど、ルドガーと、ルドガーのお兄さんであるユリウスの手配書を思い出してしまった。
あの絵はなんていうか……変だし、こわい。

「しょうがないから…ルドガーとルルと一緒に寝てあげるっ」

「ああ」

少し照れくさくて、ルドガーのベッドに駆け寄って既にごろんとおなかを見せているルルの隣に転がり込んだ。

「ルル、一緒に寝よ」

「なぁーん」

「もふもふ」

ルルのお腹に手を乗せるとふかふかとした毛並みに安心する。
ルドガーもベッドに戻ってくると、ベッドの上はあっという間にぎゅうぎゅうだ。

「せまい」

「もうちょっとこっちに寄れば?」

「…うん」

エル、ルル、ルドガーの順番で横になる。
ルルは身じろくと、エルたちの間から足元の方へ移動し、広々と横になっていた。
だからちょっとルドガーの方に寄った。

「…パパみたい」

「え?」

「なんでもない!おやすみ!!」

パパはエルのことが大好きだ。
一緒に寝る時、ぎゅうっと抱き締めてくれた。
その時、パパの胸の鼓動を聞いているとあっという間に寝てしまったのを思い出す。
そう、ルドガーの胸の鼓動がパパみたいだったから。
だから安心してしまうの。

ルドガーの部屋にも時計があるはずなのに。
今はもうそんな音気にならなかった。
そして、エルは眠りに落ちていった。

猫になるいつか(景市)

「市香ちゃん、市香ちゃん。」

うたうように好きな人の名前を呼ぶ。
くすぐったそうに彼女は振り返って、微笑んだ。

「どうしたんですか、白石さん」

手には猫じゃらし。
今日も、野良猫たちが集う場所に二人でやってきた。
市香ちゃんは「今日は凄いものを持ってきたんです!」と得意げに取り出したのが猫じゃらしだった。
猫たちの前でふりふり揺らすと、猫たちは「なんだ、それは」というように警戒した目つきをする子や、全く興味ありませんといわんばかりに毛づくろいを始める子と様々だ。

「振り方が駄目なんじゃない?それ」

「そうですかね…」

むうと少し膨れた表情も可愛くて、頬が緩む。

「貸して」

市香ちゃんから猫じゃらしを借り、ゆらゆらと揺らしてみる。
すると、先ほどまで毛づくろいをしていた猫がさっと前足を出してきた。

「あっ!凄い!」

猫のじゃれる姿を見て、市香ちゃんは嬉しそうな声を上げる。
その拍子に市香ちゃんの手が俺の腕に触れた。

「白石さん、慣れてますね」

「そうでもないよ」

猫じゃらしを振ると、猫たちも喜ぶし市香ちゃんも楽しそうだ。
凶悪事件の真っ最中なはずなのに。
どうして市香ちゃんといるとこんなにも穏やかで優しい時間が流れるのだろうか。

「俺、生まれ変わったら猫じゃらしになるよ」

「え?」

「だから市香ちゃん、猫に生まれ変わって俺で遊べばいいよ」

自分で言ってみてなんだが、案外楽しそうな気がしてきた。

「それなら白石さんも猫に生まれ変わって、一緒に遊びましょ」

「……そっか」

同じ土俵に立つ事すら、自分の意識になかった事を思い知らされる。
それと同時に市香ちゃんは生まれ変わっても俺と一緒にいてくれるらしい事実を聞いて、胸が震える。

「うん、そうだね。それがいい」

生まれ変わったら、何のしがらみもなく、君と一緒にいられたら。
それが一番良いな。

かぐや姫のお話(緋紅+ウサギ)

昔、お兄様に読んでいただいた本の中で今でも忘れられない話があります。
育ててくれた人や愛する人がいるのに、自分の生まれ故郷に帰らなくてはならない…そう、かぐや姫のお話です。

 

「ねえ、ウサギちゃん。ウサギちゃんはここで何して過ごしてるの?」

今日は紅百合さんとのお茶会。
特別なときに飲むことにしている茶葉が入った缶の蓋を開けると、とても良い香りがする。お湯をコポコポと注ぎ、少し蒸らしてからカップに淹れると、紅百合さんも良い香りだと喜んでくれた。

「そうですね…特別な事はそんなに……皆様と変わらないと思います」

「そうなんだ」

誰かが泣いているみたいな雨音。
泣いているように感じるのは、もしかしたら昔の自分を思い出すからかもしれない。
優しいお兄様。大好きだったお兄様。
笑った顔が大好きだった、私のたった一人のお兄様。
私が死んでしまって、お兄様の心は壊れてしまった。
そして、こんな場所まで堕ちてしまった。
きっと、今…私の顔を見ても何も思わないだろう。
それを確かめるのが怖くて、私はいつもお面を深く被る。

「ウサギちゃん?」

「昔、かぐや姫のお話を読んでくれた人がいました」

「かぐや姫! あれは淋しいお話だよね」

紅百合さんは紅茶を一口。うん、美味しいと改めて口にしてくれる。
この館には紅百合さんのような明るい、温かい人が欠けていた。
だからだろうか。お兄様……主様が少し取り乱していると感じる事があるのは。

「好きな人や、大事な人と離れてまで戻らなきゃいけない場所なんて……本当にあるのかな」

ぽつりと紅百合さんは呟いた。
沢山の大切なものを手離した先にあるもの。
私を生き返らせたいと願った果てにここへやってきてしまったお兄様。
今、この館にいる大半の方々はそれぞれ大事な生活を残して、ここにやってきてしまった。まるでかぐや姫みたいだと考えた事がある。

「緋影くんは大事なものあったのかな」

「え?」

「あ、えと…。緋影くんとなかなか仲良くなれなくて、あんまり話しかけると面倒くさそうな顔されちゃうからどうしたものかなーとか考えちゃって」

「紅百合さんは緋影さんが気になっているんですね」

「気になるっていっても違うよ!?なんていうか、ほっとけないっていうか…。
でも緋影くんにはほっといてくれってオーラ出されちゃってるし、うーーーん」

慌てふためいた後、しょぼんとする。
コロコロと変わる表情を見ていて、私でさえ可愛いと感じるのだからきっとお兄様もそう思っているんだろう。
自然と頬が緩んだ。

「応援してます、お二人のこと!」

「応援って、ウサギちゃんってば!そんなんじゃ…!!」

紅百合さんをからかうようにクスクスと笑う。
楽しくて、優しくて、愛おしい大事な時間。
お兄様以外の方とこんな風に過ごせるなんて知らなかった。

時間が止まったような世界。
ここから堕ちるしか、道なんて残されていない。

だけど。
堕ちるしかないとしても、行き着く先が決まっていたとしても。
少しの間でも、お兄様が紅百合さんという光と共にあれたら良い。

そんな事を考えながら、私は紅茶を一口飲んだ。
いつかお兄様と飲んだ煎茶とは随分違うけど、同じように優しい味がした。

 

 

もう、離れない(ロン七)

「ね、七海。これ見て」

台所で夕食の支度をしていると、ロンが近づいてきた。
最近疲れ気味のロンを気遣い、薬草を煎じていれようとしていたところ、私の手から薬草をひょいと奪い、ロンは私の手を取った。

「なに?」

ソファのところまで移動し、私を膝の上に乗せるとポケットから何かを取り出した。

「?」

「見てて」

それは子どものおもちゃのようで、小人と大きなボウルの形をしたうすっぺらい金属に見えた。
大きなボウルの上に小人を近づけると、ぱちんっと金属がぶつかりあう音がした。

「ほら」

ボウルを逆さにしてみせても、小人は離れなかった。

「俺と七海みたいでしょ?」

その言葉に心臓がきゅっとなる。
思わず小人に手を伸ばし、少しだけ強く引っ張るとあっさりボウルから離れてしまった。

「あー、取れちゃった」

「私とロンみたいじゃない。
私とあなたは誰がひっぱっても離れないから」

私たちを分かつのは、きっとどちらかの死だけ。
それがいつか分からないけど、それ以外のものに引き離されるつもりなんてない。
たとえ記憶を失ったって、何度だって始めてみせるから。

「そうだった。じゃあ今度はもっとしっかりくっつくもの見つけてくるかな」

ロンは小さく笑うと、もう用はないといわんばかりにおもちゃを手離した。
そして、私のことをぎゅっと抱き締めた。

「ロン、ごはんの支度」

「それは後で俺がやるよ」

「…あなたのために滋養に良いもの作る」

「うん、ありがとう。でも、今は食事よりも七海が良いな」

首筋にロンの唇が押し当てられる。
ぞくりと肌が粟立つ。
ロンの熱を感じられるこの瞬間が、気付けば好きになっていた。

「…ロン」

ずっと一緒にいて。
どんなことがあっても、私を抱き締めて。
そう願いを込めて、私からそっと口付けをした。

運命の人(おおねこ:アナザーエンド後)

恋をする相手だけが運命の人じゃない。
そんな当たり前らしき事を知ったのは、あの男と関わってしまってからだ。

 

「大外さんの好みの女性のタイプってちょっと茶髪寄りでロングな清楚系ですよね」

「僕はそんな事、君に話した覚えはないんだけど…まあ、いい。
そうだよ。体も大人らしい体つきが好きだよ」

「そんなの知ってますよ」

暗に、というかほぼ直球に私のことは守備範囲外だと言っている。
そんな事は知っているし、私も同じだ。
誰が自分のことを刺して、生死の淵をさ迷わせたような男を好き好むというのだ。
しかし、改めて言われるのも腹が立つもので、このジンジャーエールは大外さんにおごらせようと決意しながら、ストローをくわえた。

「いや、あそこに座ってる女性、大外さんの好みのタイプっぽいな~って」

ちらりとそちらに視線をやれば、大外さんもさりげなく女性を確認して、コーヒーを一口飲んだ。

「うん、好みだね」

「でしょうね」

一瞬目が輝いたのを私は見逃さなかった。
きっとホテルにいた頃だってこの男は阿鳥先輩のことをそういう目で見ていたんだろう。すぐに気付けなかった自分が憎らしい。
テーブルの上に置いていたスマホが震えると、大外さんは素早くそれを確認した。

「彼女からですか?」

「まあね」

「彼女は対象にならないんですか?」

「そんな事したら足がつくから対象にするわけがないだろう」

「ああ、なるほど」

そういえばそうか。
交際相手を疑うのは至極全うな判断だ。
交際相手では足りない欲求を見ず知らずの女性にぶつけるというのも甚だ気持ち悪い。

「じゃあ次の相手は決まりですか?」

「うーん、そうかもね」

コーヒーをもう一口。
私は残っていたジンジャーエールは一気にすすった。

「仮にも女の子なら、音を立てて飲み物は飲まない方がいい」

「仮じゃなくても女の子ですけどね」

私が飲み終わったのを確認すると、大外さんは立ち上がった。

「いいんですか、もう出てしまって」

「ああ、彼女もそろそろ出るみたいだからね」

気付かれないようにさっきの女性に再度視線をやると、確かにそろそろ立ち上がるようだった。目ざとい男だ。

「大外さんは運命の人って誰だと思っていますか?」

「ん?」

運命の人って、互いにそう思うべきものなんだと思っていた。
でも、それは恋愛だったら――だ。
だって恋愛における運命の人というのは、おそらく御伽噺のお姫様たちがすべからく王子様と結ばれるのと同義だろうから。

「そうだね、少なくとも君じゃない」

「それはどうも」

私は涼しい顔をしている大外さんにニヤリと笑ってみせる。

「今日は大外さんのおごりにさせてあげますよ」

「何言ってるんだ、君は」

そう言いつつも伝票は彼の手の中。
よっ、さすが医大生と心の中で褒めてやる。

「どうせおごりならフルコースとかが良いんですけどね」

「君にフルコースなんて大層なものは似合わないよ」

人は思ったよりも簡単に道を踏み外す。
自分がそういう人間だったなんて知りたくなかったのに、無理矢理思い知らせたからには責任を取ってもらいたい。

「大外さんにはあそこに生えてるパンジーがお似合いですよ」

「君はその近くに生えてる雑草が似合っているよ」

「私にそんなに近くにいてほしいんですか?気味悪いですね」

「なっ、そういう発想をする君のほうが気味悪い」

私の運命の人は、一緒に地獄の果てまで行く相手だ。
どこへだって一緒にいってやる。

会計が終わった大外さんに一応お礼を言ってやる。
カランコロンと可愛らしい音を立てながらドアを開けた。

「さあ、大外さん行きましょうか」

地獄の果てまで、私がエスコートしてあげます。

にっこり微笑んでみせると大外さんも他の誰にも見せない悪い顔で笑って見せた。

 

ゆめ(教会組)

落ちていく。
冷たい水のなか、たった一人で落ちていく。
誰かに助けを求めたくても、誰の名前も浮かばない。
そもそも本当に助かりたいのかさえ分からない。

落ちていく

たった一人

 

 

「……リック!エルリック!」

肩を揺さぶられて、まどろんでいた意識から掬い上げられる。

「ろれんす…?」

「暖炉の前は暖かくて気持ち良いけど、そんなところで寝たら風邪ひくよ」

「あ、うん…」

寝起きだからか、はっきりしないボクの様子を不思議そうにロレンスが見つめてくる。
その視線がボクを心配していると窺わせるもので、少しだけくすぐったくて視線を落とした。

「……ウサギ」

視線を落とした先、つまりボクの膝の上にはウサギがすやすやと体をまるめて眠っていて、呼吸するたびにお揃いでつけているリボンが微かに揺れた。

「夢をみたんだ」

「夢?」

「湖なのかな…よく分からないけど、水の中を落ちていくんだ。
誰も助けてくれないし、もがくことも出来ずに落ちていく……そんな夢」

「湖……」

ロレンスは何かを思い出すみたいに目を細めた。
その表情はいつものロレンスとは違って、どこか苦しげだ。

「ぷう」

その時、ウサギが目を覚ました。

「ウサギも起きたの?」

そっと背中を撫でると、気持ち良さそうに目を細める。

「エルリック」

「ん?」

「もしも君が溺れていたら、僕は助けるよ。君を一人で淋しい底になんてやらないよ」

暖炉の中で、薪が音を立てて燃えている。
ああ、明日は頑張って薪を割らないと。ロレンスがやってるのみるとどこか危なっかしくてハラハラするからボクがやらないとって密かに決めたんだ。

「ぷうぷう、ぷう!」

ロレンスの言葉に同調するみたいにウサギが鳴いた。
くりくりとした丸い瞳に映る自分の姿は鏡で見るよりも優しそうだった。

「うん…そうだね、ウサギ。
ロレンスもありがとう」

ウサギを抱き上げて、立ち上がる。

「ボクが溺れるよりもロレンスの方がうっかり溺れそうだからさ、
その時はボクが助けてあげるよ。ウサギのことは絶対湖になんて落とさないし」

「ぷうぷう!」

「ふふ、そっか。ありがとう、エルリック。
さあ、夕食にしようか。今日はキノコたっぷりのクリームシチューだよ」

「えっ…」

何気ない日々。
何気ない時間。

 

次見る夢はさっきのどこか哀しい夢じゃなくてきっと、
ウサギとロレンスといるような暖かい夢だ。