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お揃いのカップ(璃オラ)

手紙の配達も終わり、私は隠れ家へやってきた。
今日の手紙は三通。そのうちの一通は青のものだった。
青に足を運ぶと、会う人会う人に声をかけられ、璃空との事を祝福された。
それは彼が青の人々に愛されている証なのだと思うと嬉しく思った。
良い事がある日は、良い事が重なるようで、私は今日、素敵な買い物をした。
鼻歌まじりにそれを洗っていると、扉が開く音がした。
「オランピア、もういるのか?」
「璃空! おかえりなさい!」
「……! ああ、ただいま」
部屋に入ってきた璃空に向かってそう言うと、彼は一瞬驚いた顔をしたけれどすぐさま表情を崩した。
「今お茶を入れるから座ってて」
「ああ、ありがとう」
私はいそいそとお茶の支度をする。
そして、洗ったばかりのそれ――カップを乾いた布で綺麗に拭き、部屋に置いてあったカップと並べた。
そう、今日素敵な買い物をしたというのはこれの事。
部屋には自分とだいふくが使う分のカップとグラスしかなくて、とても人を招ける状態じゃなかった。それにここに訪ねてくる友人なんて私にはいなかったからそれで困る事なんてなかったのだ、今までは。
けれど、今はこうして璃空が来てくれる。
温かいお茶をこぽぽ……と注ぐと、茶葉の優しい香りが花開く。
丁寧にお茶を入れた後、私はカップを二つ持って璃空の元へと戻る。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。白夜、それは……?」
「うふふ、気づいた? 実はね、今日見つけたの!」
そのカップは白地にワンポイントで青のインクでキャラクターがあしらわれているもので、見つけた瞬間これだ!と思った。
「この模様は……鼠か?」
「そう! そう見えるわよね? ちょっとだいふくよりはスリムだけど、素敵だと思って買ってしまったの!」
今、この場にだいふくがいたら「そんな事ありません!」とふくよかな体で訴えてきたかもしれない。ごめんなさいね、だいふく。
そんな想像を璃空もしたのか、柔らかな笑みを浮かべた。
「しかし、このカップは一つだけか?」
「ええ、璃空の分のカップに買ったのよ」
「……店には?」
「まだ数点あったと思うけど」
「それだったらお前の分も買おう。俺の分だけなんて味気ないだろう。この鼠が気に入ったならなおさらだ」
「え? でも、私のカップはあるのよ」
「いや、そうだが……同じものを使うのも、悪くないだろう? いや、カップはたくさんいらないかもしれないが、多すぎて困るものでもない……はずだ」
十個も二十個もあったらさすがに邪魔になるかもしれないわ、と思ったがそんな事は口にしなかった。
だってこの部屋にあるカップは二つだもの。もう一つ……璃空とお揃いのカップが増えたってどうって事ない。ううん、それよりもとても幸せな気持ちになるかもしれない。いや、きっとなる。
「素敵な提案ね、璃空! ありがとうございます。今度見かけたら買う事にするわ」
「……いや、実は」
そう言って、少しだけ気まずそうに璃空は持っていた袋からドン、と何かを取りだしてテーブルの上に置いた。
それは――
「あら? これって」
「俺も今日見つけたんだ。お前が喜びそうだと思って……」
私が買ったものと全く同じカップだった。
カップと璃空の顔を交互に見て、私は小さく噴き出した。
「うふふ、同じ日に同じものを買うなんて、素敵なめぐりあわせね」
さっき想像したよりも、私の心はずっとずっと幸福で満たされている。
お揃いのものってこんなに素晴らしいものだったのね。
「貴方といると、知らなかった事たくさん知っていくわ」
「それは俺もだ。誰かのために何かを選ぶ事が楽しいなんて知らなかった」
「……!」
「あ、いや。……くそ、余計な事を言ってしまった」
「ううん、余計じゃないわ。すごく嬉しいもの! 今だってね、飛びつきたいくらい嬉しいの」
そんな事をしたら璃空が驚いてしまうからぐっと我慢しているだけなの、と笑うと璃空の顔が赤く染まった。
「それは……俺も堪えていたものだ」
「え!?」
いつの間にか、私たちは同じような事を考えるようになったのだろうか。
一緒の時間が増えていくと、そんな素敵な事が起きるのね。
貴方を好きになって、知らなかった事を一つ一つと知っていって、愛というものの形が私の中で輪郭を帯びていく。

私が飛びつくと、璃空は嬉しそうに私を抱きしめた。

お揃いのカップが寄り添うようにして、そんな私たちを見守ってくれるのだった。

恋人の時間(九玲)

「そうだ、しりとりでもしないか」
「しりとりですか?」

今日は休日。いつもは九条家にお邪魔する事が多いのだが、今日は壮馬さんが私の部屋に来ていた。二人で座るには少し小さなソファに身を寄せ合いつつ、宮瀬さんが焼いたスコーンを二人で食べていた。
壮馬さんが来る時だけに出す、ちょっとお高い紅茶を飲んでいると壮馬さんが突然不思議な提案をしてきた。

「ああ、ぜひ。貴方としたいと思ってたんだ」
「いいですよ、やりましょう」

しりとりを私とやりたいと思っててくれたのかと思うとなんだかほっこりする。
頬を緩ませながら、私は頷いた。

「じゃあ、何から始めましょうか。しりとりのりからにしましょっか」
「ああ、そうしよう」tよ

なんだか少しだけ壮馬さんの目が輝いて見えるのはなぜだろうか。
先行は私、という事でりのつく言葉を思い浮かべる。あんまり難しい文字で終わらないように考えながら、私は口を開く。

「りす!」
「!」

まるでその言葉を待っていましたといわんばかりに壮馬さんの表情が光る。

「好きだ」
「え?」

壮馬さんが言ったのは私が想像していたしりとりではないようで…?
思わず面食らってしまうが、私の返答をわくわくと待っている壮馬さんに尋ね返す事なんて出来るわけもない。

「えーと……だ、ですよね? だ……」

どうしよう。壮馬さんに乗っかって返すべきなんだろうか。
ちらりと壮馬さんの顔を見ると、割ととてつもなく期待に満ちた目をしていた。

(これはやっぱりあの言葉を期待してるのでは!?)

壮馬さんは時々、こういう茶目っ気溢れる遊びをしたがる。多分これはテレビとかで見たんじゃないかな。お気に入りのドラマのワンシーンを再現する遊びも好きな壮馬さんの事だ、きっとそうに違いない。

「玲、思い浮かばないか?」
「……!! いえ、浮かびます、大丈夫です!」

あまりに時間をかけすぎてしまったようで、壮馬さんが不安げに私を見つめていた。これはもう覚悟を決めよう。私は膝の上に置いていた手をきゅっと握り、壮馬さんの方を見た。

「だ、大好きです! 壮馬さん!」

恥ずかしすぎて穴があったら入りたい。今なら顔から火が出るかもしれないなどと考えていると、壮馬さんが嬉しそうに笑った。

「玲、『ん』がついてしまっているぞ。それでは終わってしまう」
「あ……ああ、そうですね!私ったらうっかり!」

勢いのまま壮馬さんの名前まで呼んでしまった。照れ笑いを浮かべていると、壮馬さんが私の肩をそっと抱いた。

「実は、この遊びは先日テレビでやっていたものなんだ」
(やっぱり!!)
「それで、貴方としたら楽しそうだなと思ったんだが、楽しいだけではなくて胸が弾むような気持ちになるな」
「壮馬さん……」

そんな風に思ってもらえるなら恥ずかしいのを堪えて挑んだ甲斐がある。
私は甘えるように壮馬さんの肩に頭を乗せた。

「それでは次はもっと続くようにやってみよう」
「え?」
「次の言葉はそうだな……玲。貴方の名前から始めようか」

そう言って、再びしりとりのような何かが再開される。
こうなったらいっそ壮馬さんを照れさせてやろう!と挑んでみるのだったが、結果は言うまでもなく私が散々赤面させられるばかりで。

壮馬さんには一生敵わないなぁと思いながら過ごす、そんなありふれた恋人の時間を私たちは今日も過ごすのだった。

以心伝心(宮玲)

今日は久しぶりの休日。
家の近所に新しくオープンしたというカフェに豪さんと二人で来ていた。
オープンしたという噂を聞きつけて、私たちのように足を運んだお客さんで店内は大変にぎわっているが、一つ一つの席の間隔にゆとりがあるおかげだろう、そんなに混雑しているという気持ちを与えないのがとても上手な店づくりだなと感心してしまう。
私が注文したのは本日のお魚プレートで、ぶりの照り焼きがとても美味しかった。豪さんはハンバーグプレートを食べ、「桐嶋さんが喜びそうな味付けです」と顔をほころばせていた。
そうして、最後。運ばれてきたデザートを食べながら、私たちはゆったりとした時間を過ごしていた。
「美味しいものを、好きな人と食べるのって幸せですよね」
私がしみじみと呟くと、豪さんがくすりと笑う。
「玲さんは美味しそうに食べるから、見ていて気持ち良いです」
「豪さんも結構表情変わるから楽しいですよ」
「え? そうですか?」
「この味付けは誰が好きそうだとか、どうやったら家で作れるのかなとか考えてるのが分かります」
「……さすが玲さん」
ここのところ、本当に忙しかった。食事はほぼコンビニ。仕事しながら食べれるように、とおにぎりやパンが続いていた。
おにぎりやパンだって美味しいけど、このお店のお料理――お魚や野菜の味が体に染み渡るようだった。今後も通おうとひっそりと心に決めたところで、不意に豪さんの視線が突き刺さっている事に気づいた。
「……?」
豪さんが見つめているのは、私の顔。だけど、目を見ていない。いつも豪さんは話す時、私の瞳をじっと見つめる。その熱烈な視線に照れてしまう事もあるけど、目と目を見て話をするって気持ちが伝わりやすくていいなと思っていたのだ。
その豪さんが見ているのが瞳ではなく……私はどこを見ているか気づいた。そう、唇だった。
仕事が忙しい日々が続いて、時々メッセージを送ったり電話はしていたけれど、豪さんに会えるのはおよそ一か月ぶりの出来事だった。
今日も、「玲さん、疲れてるだろうから」とお昼前にこのお店の近くで待ち合わせをした。この店を出た後はスーパーで買い物をして、豪さんの家に行く予定だ。
(もしかして、豪さん……!)
恋人としてのスキンシップを求めてるんじゃないだろうか。そう気づいたら、心が落ち着かなくなった。
「あの、豪さん?」
「はい」
ちょいちょいと手招きをして、豪さんと顔を近づける。お耳を拝借とジェスチャーをすると豪さんがこちらに耳を向けた。
そして、私は勇気を振り絞り、彼の耳に唇を寄せる。
「豪さん、キス……したいんですか?」
私の言葉に豪さんが驚いたように目を見開き、こちらを向いた。
「私も、その……!ずっとしてないし、したい気持ちですけど!!さすがにここではちょっと……なので家に帰ったら」
「玲さん」
豪さんはふわりと微笑むと親指で私の口元をぬぐった。
「…え?」
「クリーム、ついてますよ。って言おうかと思って見つめちゃいました」
「~っ!?」
いい大人が口元にクリームをつけていたから、それを指摘するか悩んでいたのに、それをキスしたいと勘違いするなんて……!頭をテーブルに打ち付けたい気持ちでいっぱいだ。
「ああああ、それはとんだ粗相を……!」
恥ずかしくて両手で顔を覆う。穴があったら今すぐ入りたい。いや、掘りたい。
「玲さん」
そんな私の両手を豪さんがそっと握る。目の前の豪さんは少し頬を赤らめながら、優しく笑う。
「俺もしたいなって思ってたんで、家に帰ったらいっぱいしましょうね」
「……!」
「だって家に帰ったらいいってさっき言ってましたよね」
「……いいました」
「楽しみだなぁ」
ご機嫌な恋人を目の前に、私は何も言えなくなった。

スーパーに寄る予定を変更し、豪さんに手を引かれながらそそくさと家に帰った後の出来事は……二人だけの秘密だ。

魔法をかけて(司玲)

私はとんでもない事をしでかしてしまった。

「司さん、見てください。新しいカップ麺出てますよ! ほら、春限定のカップ麺ですって!」
「玲さん、カップ麺なんて体に悪いですよ」

二人で来ていたスーパー。新商品の棚に陳列されていたカップ麺を手に取って司さんにアピールしてみたが、私の手からそっとカップ麺を奪い、陳列棚に戻してしまう司さん。いつもだったら買い物カゴに迷わずINするのに……
私と付き合うようになってから、司さんの偏食は大分収まった。とはいえ、カップ麺やピザといったジャンクフードは大好きなのは相変わらずだ。新商品が出れば迷わず買うし、家のキッチンにはうず高くカップ麺が重なっていたのに。

 

そう、あれはと昨日の夜の出来事だ。
お風呂から上がった私たちはつけっぱなしにしていたテレビから流れてくるバラエティー番組を見ていた。
その番組で取り上げていたのが、催眠術だ。

「司さんは催眠術、信じます?」
「そういうものは信じませんね」
「意外とかかっちゃったりするかもですよ? せっかくだし、やってみましょうか!」

司さんといると童心がくすぐられる事がよくある。
今日もそんないつものノリだったはず……だが。
ありきたりな催眠術――五円玉を糸でつるして、司さんの前でぶらぶらと揺らす。

「司さん、五円玉をよーく見てください」
「五円玉より玲さんの顔がみたいです」
「それは……これが終わったらいくらでも」
「飽きるまで見つめますね。いや、玲さんに飽きるわけがないからずっと見てしまいそうだ」
「そうなったら私も司さんのこと見つめ返しますから!」

他愛ないやりとりをしながら、五円玉をぶらぶら。
催眠術、何が良いかなぁと考えた私は視界の片隅にあったカップ麺を見て閃いた。

「司さんはカップ麺に興味がなくなーるー司さんはカップ麺に興味がなくなーるー」

何度かその言葉を繰り返した後、両手をパンと司さんの前で叩く。
すると、司さんは数回瞬きを繰り返した後、私を見上げた。

「司さん、どうですか?」
「どうと言われても……どうでしょう?」
「うーん。あ、カップ麺をお夜食に食べるっていうのはどうでしょう?」

いつもならそこでちょっと嬉しそうな顔をする司さんが眉間にしわを寄せて、顔をしかめた。

「カップ麺なんて、体に悪いもの食べるのは良くないですよ。玲さん」

かくして、私がかけた催眠術は成功してしまったのだった……
まさかかかると思ってなかったから、どうやって解いていいのか分からず新商品を見せれば元の司さんにもどるのでは!?と期待してやってきたスーパーでも撃沈。
肩を落としながら食料品を買って、家に戻る。荷物を置いた後、司さんが私を後ろから抱きしめた。

「玲さん、ごめんなさい」
「え?」
「催眠術、かかってないんです」
「ええ?」

驚いて司さんの方を向くと、司さんがなんだか申し訳なさそうに笑う。

「玲さんが張り切って催眠術をする姿が可愛くて、かかったふりをしてしまいました」
「そんな……!いや、そうですよね。催眠術なんてかかるわけないですよね」

言われてみればそうだ、と思いながらも本当に焦ったのだ。
私はほっと息を吐き、司さんにぎゅっと抱き着いた。

「司さんの大好きなもの、取り上げちゃったのかと思いました……」
「玲さん……」

体が悪くなるほど食べるのは反対だけど、好きなものは心の栄養にもなるだろう。私だって焼酎が飲めなくなったら悲しすぎる。

「玲さん、すいません」
「種明かし、もうちょっと早くしてほしかったけど、催眠術の才能があるのかもってちょっと夢みれたんで許します」

そう言って笑うと、司さんも安心したように微笑んだ。
額と額をこすりあわせると、司さんの顔がすぐ近くにあった。

「仲直りの証にキスをしても?」
「許しちゃいます」

くすくすと笑いあい、私たちは唇を重ねる。
そういえば催眠術の件で慌てふためいていたから、今日初めてのキスだと今更気づいた。

「玲さん、大好きですよ」

私が催眠術をつかえようがつかえなかろうが、今後絶対司さんの好きなものを禁止するようなことは言わないようにしようと彼の腕の中で心に誓うのだった。

あなたしか見えない(宮玲)

私の恋人は、ちょっと……いや、かなりのドジっ子だ。
バナナの皮を踏んづけて転ぶ人が漫画の世界以外にもいた事に驚いたこともあるし、電球を変えようと脚立にのぼって足を踏み外したと聞いた時には心臓が止まるかと思った。
そんな豪さんを可愛いなと思う事もしばしば……だけど、可愛いだけじゃないのが私の恋人である。

ある日の休日。
豪さんの家に来ていた私は、豪さんと一緒にお庭の手入れの手伝いをしていた。
雑草を根っこから丁寧に抜き、栄養剤を土に差し、最後にお水を撒こうという事になった。

「水まきが終わったら、一緒にシュークリーム食べましょう。玲さんが来るから焼いておいたんです」
「えっ、シュークリームですか!? 豪さんの焼くシュークリーム大好きです!」
「それは良かった。……おや?」
「どうかしました?」
「水、出ないですね」

確かに豪さんの持っているホースからは水が出てくる気配がない。

「蛇口開けるの忘れちゃったのかもですね。私が開けてくるんで、豪さんは構えててください!」
「分かりました」

私は庭の片隅にある水場まで小走りで駆けてゆく。
きゅっきゅっと蛇口を回すと、ホースの中に水が流れるのが見えた。

「豪さん、水そっちにいきますよー!」
「はーい!」

離れた場所にいる豪さんに声をかけると、豪さんは元気良く返事をしてくれた。が、彼の持つホースからは一向に水が出てこない。

「出てこないですね」
「おかしいなぁ……」

こちらから見ると確かに水は出ている。不思議に思いながら自分のいる位置から豪さんの元までホースを目で追うと、なんと豪さんがホースを踏んづけていた。

「豪さん!足!ホース踏んでるんで足どけてください!」
「え? ああ、本当だ」

豪さんは自分の足元に見て、ホースを踏んでいる事に気づくと照れ笑いを浮かべて、その足をどけた。
その時だった。豪さんに踏まれて、なかなか水を吐き出せないでいたホースが勢いよく水を噴射した。

「わわっ……!」
「豪さん上に向けちゃ……!」

豪さんは水の勢いに負け、私の制止も届かずうっかりホースを上に向けてしまった。突然の雨に打たれたみたいに豪さんがあっという間に濡れネズミになってしまった。

「豪さん……!!」

私は蛇口を慌てて閉め、豪さんの元へ駆け寄る。
豪さんは子犬のようにふるふると顔を振り、濡れた髪をかきあげる。
不謹慎ながら、その表情があまりにも色っぽくてときめいてしまう。

(水も滴るっていうやつだ……)

言葉を失っている私の方を見て、豪さんが困ったように微笑んだ。

「参りましたね、びしゃびしゃです」
「すみません、私がもっと分かりやすく言えばよかったですね」
「ホースを踏んでた事に気づかなかった俺が悪いですよ」

ハンカチを取り出し、豪さんの顔を拭くが髪や服からぽたぽたと水が垂れるのであまり意味をなさない。

「濡れたままだと風邪ひいちゃいますからお風呂入りましょう、豪さん」

まだ季節は春だ。暖かくなってきたとはいえ、濡れたままでは風邪をひくだろう。

「そうですね。入った方がよさそうですね。
玲さんも一緒に入る?」
「!?」

豪さんのずるいところは、こういうところだ。
一緒にお風呂だなんて。うっかり想像してしまって顔が熱い。
そんな私を見て、豪さんはくすりと笑う。

「顔が真っ赤ですよ。玲さんのえっち」
「なっ!!!」

えっちって……!確かに想像してしまったけど、えっちって言われるなんて……!
そして、その言い方はなんだかとても反則だ。もう何本を豪さんが打った矢が心臓に突き刺さっているので、キャパオーバーだ。

「あんまりからかってると玲さんに怒られちゃいそうなんで、俺はシャワー入ってきますね。お風呂は夜、一緒に入りましょう」
「え、豪さん……!」

なんだかとんでもないことをさらっと言い残して、豪さんは家の中へと消えていった。私は庭で綺麗に咲いているブーケンビリアの花を見ながら、頭を抱えるのだった。

 

 

もう逃げられない(九玲)

気持ちを、素直に言葉にするのは難しい。大人になるにつれて、どんどん自分は思いを素直に伝えられなくなっている気がする。
それは特に――恋愛面で、とても痛感している。
私は今、九条壮馬さんに恋をしている。

金曜日の夜。今日は九条家のホームパーティーに招いてもらった。宮瀬さんの作る料理は家庭料理の味の良さを持ちつつ、料理のプロが作るような味わいもあり、今日も舌鼓を打った。
手土産に持ってきた大吟醸も桐嶋さんと新堂さんによってあっという間になくなり、とても楽しい時間を過ごさせてもらった。
色々とお酒を飲んだせいか顔が火照っている。宮瀬さんがデザートを用意するといってキッチンに消え、それの手伝いをすると言ってカナメくんも席を立った。
桐嶋さんと新堂さんは筋トレの話で盛り上がっており、その様子を目を細めて九条さんが見守っていた。
「九条さん、すいません。ちょっとお庭を散歩してきてもいいですか?」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます。すぐ戻りますね」
「いや、その必要はない。私も行こう」
そう言って九条さんは席を立つ。
「さあ、行こうか」
私をエスコートするために差し出された手。握り返して良いものか、一瞬悩んだけどお酒の力を借りて、えいっと手を取った。
「……! はい、お願いします」
九条さんは小さく笑ってくれた。

外に出ると心地よい風が頬を撫でる。火照っていた肌が少し冷えると、酔いも抜けていくような気がした。
「今日はお誘い、ありがとうございました。とても楽しかったです!」
「そうか。貴方が来ると場が華やぐからな」
「滅相もないお言葉です……」
九条家も顔面偏差値がこの上なく高い。右をみても左をみても正面を見てもイケメンしかいない。マトリでイケメン耐性がついた気になっていたが、イケメンはイケメンだ。三日見たって慣れるものではない。そんな中に平々凡々な私がいたって花を添えられるはずなんてないのだ。
「ふむ。どうやら私の言葉を信じてないようだな」
「信じてないというかなんというか。私に気を遣ってくださっている事は分かってます。ありがとうございます」
月明りの下でみる花たちは日中と違う顔をしている。可愛らしいはずのチューリップが、今は神秘的な美しさを持っているように見える。
「……場が華やぐという言い方が失礼だったな」
九条さんは私の肩をそっと引き寄せた。トン、と九条さんの胸に肩がぶつかる。近くなった距離に驚き、顔をあげると九条さんの顔が思いのほか近い場所にあって息を飲んだ。
「貴方に会いたかったから、会えて嬉しかった」
「……ええと」
勘違いしそうになる。だって今の九条さんの表情は、さっき桐嶋さんや新堂さんを見守っている時と同じだったから。まるで私の事が大切みたいだと、錯覚してしまいそうになる。
「私も、皆さんにお会いできて……嬉しかったです」
だから勘違いしていないという返事を選択して、縮まった距離を適正な距離に戻そうとする。だけど、九条さんはそれを許さない。
「俺は“貴方に会えて嬉しかった”と言っているんだが。貴方は違うのか?」
九条さんの手が私の腰に回る。触れている部分からじわりと熱が侵食していく。
「九条さん、なんだかそれって告白みたいに聞こえちゃいます。私だから良いけど、他の人だったら勘違い……」
冗談にして誤魔化そうとする。だって九条さんが私を好きになるわけない。彼の世界にはきっと魅力的な人であふれているだろう。わざわざその中から私を選ぶ事なんて――
「貴方が好きだと言ったんだが」
「-っ!」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
「貴方が好きだと言ってるんだ」
「九条さ、」
九条さんは私を抱きしめる。私の頬は九条さんの胸に押し当てられる。すると、ドクンドクンと九条さんの鼓動が聞こえてきた。
(……なんだか早い。もしかして九条さんもドキドキしてるのかな)
九条さんが私にドキドキするなんて。恐る恐る顔を上げると、九条さんと視線がぶつかる。
好きだと認めてしまったら、胸のなかで膨らんでいた感情が爆発してしまうんじゃないかな。それがなんだかちょっと怖い。だけど、もう押し込めておく事なんて出来そうにもない。
だから私は勇気を出す事にした。
「私も、九条さんの事が大好きです」
その言葉に、九条さんは今まで見た事のない優しい笑顔を私にだけ見せてくれた。

恋人はずるい人(宮玲)

「玲さん、まだ怒ってます?」
私の恋人が少し困ったような、悲し気な声で私に問いかける。
「怒ってはいません…! 多分」
「じゃあ、こっち見て?」
「それは嫌です!」

それは数十分前の出来事だった。テーブルの上に置きっぱなしになっていた豪さんのスマホ。誰かから電話が来たのか、ブーブーとスマホが振動し始めたのだ。
「豪さん、電話みたいです!」
「すいません、今手が離せないんで持ってきてもらえますか?」
庭先に出ていた豪さんがそう叫んだ。なので、私は豪さんのスマホを手に取り、彼の元へと急いだ。液晶画面に表示されていた名前は桐嶋さんだった。が、豪さんの元にたどり着く前に電話は切れてしまったのだ。
「あっ……! 切れちゃった。…………ん?」
着信が切れ、スマホの表示はロック画面に戻ってしまう。が、そのロック画面がとんでもないもので私はその場で固まってしまった。
「すいません、玲さん。わざわざ持ってきてもらって……玲さん?」
庭に出ようとしたあたりで立ち止まっていた私の元へ豪さんが戻ってくる。動かない私に不思議そうに小首をかしげながら、豪さんが私の名前を呼んだ。
いつもだったらそれだけの仕草で胸がときめいてしまう。いや、今も正直きゅんとしてしまったんだけど。今はそれどころじゃないので私はぐっと胸きゅんを押しとどめた。
「豪さん、これはどういうことですか?!」
私はスマホの画面を豪さんに向けて突き出した。
「あ、見つかっちゃいましたね」
豪さんははにかんだ笑顔を見せながら「すいません」と笑ったのだ。
ロック画面には、私の寝顔が設定されていたのだ。

「寝顔を撮ったなんて聞いてませんよ!」
「すいません、言い忘れてました」
「それにロック画面にするなんて……!」
「玲さんが可愛すぎていつでも見れるように……って思ったんですけど、ロック画面じゃ誰かに見られてしまう可能性がありましたね。すいません」
「……豪さん、スマホを私の方に向けるのやめてください」
「寝顔の代わりに起きてる可愛い玲さんを撮りたかったんだけど駄目?」
その聞き方はずるい。とてもずるい。手で顔を隠しながら、豪さんの方をちらりと見る。にこにこと笑みを浮かべた豪さんは肩肘をついてこちらを見ていた。
「今日はちょっと顔がむくんでるんでダメです」
写真を撮る事になるんだったら昨日いっぱいお酒を飲むんじゃなかったと今更しても遅い後悔をする。
「そんな玲さんだって可愛いですよ」
「~っ、今日はダメです!もっとコンディションが良い時にしましょう!」
「そこまで言うなら仕方ないですね。今日は諦めます」
そう言って、ようやくスマホをテーブルの上に置いた。私はほっと胸を撫でおろし、手をどけて豪さんに向き直った。
すると豪さんはまるで綺麗な花を見つけたみたいに笑みをこぼす。
「やっとこっち見てくれた」
ああ、豪さんはずるい。ロック画面に私を設定してくれた事だって本音を言えば嬉しかった。寝顔が照れ臭かっただけだ。
「今度豪さんの寝顔撮らせてくださいね?」
「玲さんだったらいつでもいいですよ。なんだったら今晩でも」
豪さんの手が私の手をそっと握る。豪さんの言った意味を瞬時に理解してしまった私は顔が熱くなった。
「それは……!その」
しどろもどろな私を見て、豪さんは幸せそうに笑うばかりだった。

あいしてるげーむ(鴉紅)

「ねえねえ紅百合ちゃん」

ある日の事。
今日の探索も終え、夕食も食べ終わり、自由時間をみんな思い思いに過ごしていた。
私はソファに座り、新しい本を読むべく、開こうとしていたところでどこからともなくやってきた鴉翅くんがやってきた。
ぽすんと私の横に腰を下ろした鴉翅くん。距離がとてつもなく近い。

「か、鴉翅くん。ちょっと近すぎるんじゃないかな」

そう言いながら私はお尻をあげて、拳三つ分くらいの距離をとる。

「えー、そうかなぁ?だって紅百合ちゃん、良い香りするし、近くの方が安心するかなーって」
「うーん……この距離でも十分近いと思うんだけど」

ずいっと近づいてくる鴉翅くん。折衷案として、拳1.5個分の距離になったけど、それでもやっぱり近い。私は本を胸に抱えて、鴉翅くんの方を向いた。

「そんな露骨にガードされると傷つくなー。まあ、いいや。あのさ、『愛してるゲーム』って知ってる?」
「あいしてるげーむ?」
「うん、知らなさそうだね。ルールはいたって簡単。愛してるって言われて照れたら負け。ねえ、せっかくだからやってみようよ」

何がせっかくなのかはわからないが、鴉翅くんは非常にノリノリだ。
でも……

「うーん、やめておこうかな」
「え、どうして?」
「だって、その……愛してるって言葉は大事な人に伝えるものでしょ? だからそういうゲームで口にするのはちょっとなぁって思って」
「……紅百合ちゃんにはいるんだ? 愛してる人」
「それは分からないけど…」
「ふーん」
「わ、私部屋に戻るね!」

なんだか気まずくて、私はソファから立ち上がると、鴉翅くんが私の腕をつかんだ。

「わっ!」
「ねえ、紅百合ちゃん。愛してるよ」

そう言った鴉翅くんはいつもと違った空気をまとっていて、なんだかとても――本気のように思えた。
じわじわと頬が熱くなる。重苦しい沈黙を破る言葉を探しているのに、言葉を紡ごうとする唇からは結局何も語られず、ぱくぱくとするだけ。

「ぷっ、紅百合ちゃんの負け!」
「!! やらないって言ったのに!」
「本気に受け取っちゃった? それでも全然良いんだけどさー」
「私、もう寝るから! おやすみ!」

鴉翅くんの手を振りほどき、私は自室へと駆け込む。
まだ心臓がうるさい。私は背中を扉に預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

「明日どんな顔すればいいんだろう」

無意識に鴉翅くんの言葉を反芻し、私は再び顔を赤らめるのだった。

 

「……いや、あんな可愛い顔するの反則でしょ」

ゲームだってあらかじめ言ってるのに。
それなのに顔を真っ赤にして、俺を見つめた彼女はどうしようもなく可愛くて。
彼女が部屋に逃げ帰ってくれて助かったと熱くなった頬に触れながら、そんな事を考えていた。

 

いっぱい呼んで(緋紅)

「緋影くん緋影くん!」

最近彼女がやたらと僕の名前を連呼しては、僕の後ろをちょこまかとついてくる。
それはまるで生まれたばかりの鳥が初めて見たものを親だと思ってついてまわるような刷り込み現象にも見えた。

(……最初に構いすぎただろうか)

館内で黒蝶狩りをするために高頻度でパートナーに選ばれていた自覚はある。
それに彼女の気持ちを掴んでおいたほうが事が運びやすくなるだろうという思惑もあったので、放っておいたのだ。
だが、これはなんというか――

「それでね、緋影くん!」
「紅百合」

彼女の話に割り込むように口を開く。
きょとんとした顔で、僕を見つめる瞳はなんだか幼くて、記憶にあるはずのない遠い日が一瞬頭をよぎった。

「緋影くん……?」
「ああ、いや」

呼びかけたくせに黙り込んだ僕に少し戸惑った顔をする紅百合。
僕は軽く咳払いをして、彼女に向き合った。

「君は少し僕の名前を連呼しすぎだと思う」
「そうかな? そんなつもりはなかったんだけど」

緋影くんって呼びやすいのかもしれないね、と頓珍漢な答えが返ってくる。
呼ばれる方がたまったもんじゃない。不快なわけではないけど、彼女が僕の名前を繰り返し呼ぶたびなんだか落ち着かない気持ちになる。

「紅百合」
「なに?」
「紅百合紅百合」
「えーと……緋影くん?」
「紅百合紅百合」
「緋影くん……!」

多分はたからみたら不思議な光景だっただろう。
僕の気持ちを分からせるために彼女の名前を繰り返し呼んでやった。

「あんまり呼ばれると恥ずかしいよ…!」

気づけば、彼女は頬を赤らめていた。

「そんなつもりじゃ……」
「え、えと。あ、私夕食の支度しなきゃいけないんだった! それじゃあ、緋影くん後でね!」

僕の言葉を最後まで聞かず、彼女はキッチンへと逃げていく。

「何をやってるんだ、僕は……」

距離を空けようとしたはずなのに、近づいてしまった気がした。
いや、それよりも。
彼女の熱が伝染したみたいに僕の顔も熱くなっている理由を、僕自身まだ気づいていない。

まいご(ロン七)

がやがやと混雑している道を歩く。
はぐれないようにとロンが私の手を強く握った。

「七海は小さいから、はぐれたら見つけるの大変そうだね」
「小さくない。そのうちロンより大きくなる」
「はは。それはちょっと嫌だなぁ」

それにしても今日は何か催し物でもあるのかと言うくらい大勢の人でにぎわっている。
ロンは周囲の人より頭一つ分くらい飛び出ているから、はぐれたって私はすぐ彼を見つけられるだろう。

「あ……」

その時、人の隙間から懐かしいものが目に入ってきた。
露店に陳列しているそれに気を取られていた私は前を歩いてる人にぶつかりそうになる。けど、それを間一髪でロンが防ぐ。

「何を見てたの?」
「……あれ」

人をかき分けるようにして横に進み、露店に近づく。
そこにあったのはサングラスだ。
初めて出会った時のロンはサングラスをかけていた。

「七海、興味あるの?」
「……ううん、なつかしくなっただけ」
「へぇ。妬けちゃうなぁ」

心にもない事をロンが口にする。
ここにとどまる理由はなくなったので、私はロンの手を引いて歩き出す。

「ねえ、七海」
「?」
「例え今はぐれたって、七海がどんなに小さくたって俺は必ず七海を見つけるよ」

安心して、と笑う。
いっつもふらふらと野良猫のようにどこかに行っては消えていた彼はもういない。
私を見つけてくれる彼が、そこにいる。

「小さいは余計」
「でも可愛いと思うけどなぁ」
「……! ロンほど大きくなるのはやめておく」
「うん、それが良いね」

私だって、ロンを見つけられる。
だけど、もう二度とはぐれないように、私は繋いだ手に力を込めた。

恋人にキスをせがんでみた~山崎カナメの場合~

「カナメくん、キスしてもいい?」
カナメくんの肩がぴくりと反応する。運転中のカナメくんはちらりとこちらを見て、ため息をついた。
「今は駄目」
「えー、カナメくんのけちー」
「玲さん、大分飲んだでしょ?」
「そんな事ないよ! お付き合い程度にかるーく飲みました!」
「その返事がどう聞いても酔ってる人なんだよね」
今日は大学の頃の友達と女子会だった。楽しくお酒を飲んだ私を頃合いを見て迎えに来てくれたカナメくん。酔っ払ってふらふらとしている私の腰をがしっと抱き、「玲さん、しっかりして」と耳元で囁きつつ、車に私を乗せると買ってきてあったお水をしこたま飲まされた。この一連の流れでもはや胸キュンだ。頼りになりすぎる年下の恋人に私はすっかりメロメロでお酒に背中を押されて、いつもなら恥ずかしくて口が裂けても言えない事を言ってしまった。けれど、全然相手にしてくれないカナメくん。(運転してるからそりゃそうだ) しばらくして、信号が赤に変わるとようやくカナメくんがこちらを向いた。そう思った瞬間、後頭部を引き寄せられ、唇を塞がれていた。唇の隙間から入ってくる熱い塊を夢中で味わうと信号が青に変わるのだろう。唇が離れてしまった。
「あ……」
「…そんな可愛い反応して、俺を煽らないで」
「だって」
しゅんと肩を落とすとカナメくんはふっと小さく笑う。
「今日の玲さん、なんだか子供みたい。酔っ払いってそういうものなのかな」
「子供じゃないです! 大人です!」
「じゃあ、大人ならこの後行く先変えてもいいよね?」
そう言って、横目でこちらを見るカナメくんの瞳は熱が籠っていて、それに気づいた瞬間ぞくっと肌が粟立った。
私はこくりと頷くしかない。
「玲さんが大人だってこと、後でちゃんと教えてね?」
そう言って笑うカナメくんは男の人の顔をしていた。

恋人にキスをせがんでみた~新堂清志の場合~

「清志さん、キス……してもいいですか?」
「……………………君は熱でもあるのか?」
長い長い沈黙の後、そう言いながら清志さんは私の頭に手を押し当てた。
「これでも勇気を振り絞ったんですが!?」
「俺の仕事中にそんな勇気を振り絞るな」
「うっ、そうですよね……」
仕事終わり、清志さんと夕食を食べる約束をしていた。約束の時間よりも早く終わったので、清志さんの診療所を訪れた私は、清志さんが一段落ついたところでネクタイを緩める姿を見て、うっかりときめいてしまった。
「でも、ネクタイを緩めるのは反則だと思うんです…!」
清志さんは「君は馬鹿か?」というような表情で私を見つめている。違うんです、言い訳をするとここ最近忙しくて、久しぶりに会った清志さんのかっこよさにときめいて口走っただけなんです。
心の中で言い訳を述べていると、清志さんは私の顎をそっと持ち上げた。
「君はネクタイを緩める男がいたら誰彼構わずキスしたくなるのか?」
「そんな訳ないじゃないですか! 清志さん限定で―」
言い終わる前に唇が塞がれてしまった。驚いて目を開いてると清志さんと目が合ってしまい、体が熱くなる。
「これで満足か?」
「ま、満足です…!」
「そうか、それじゃさっさと飯を食べて、俺の家に行くぞ」
清志さんは白衣を脱ぎ、いつもの場所にかける。その背中を見ながら、私は小首をかしげる。
「清志さんの家に用事があるんですか? だったらごはんの前に寄っても……」
「君はさっきのキスで足りたかもしれないが、生憎俺はあれだけじゃ足りないんでな。それとも夕食前に付き合ってくれるのか?」
「…! そ、それは何を?」
「さあ?」
にやりと笑う清志さんの悪い笑みにネクタイの比じゃない程にときめいてる自分がいた。

恋人にキスをせがんでみた~桐嶋宏弥の場合~

「宏弥さん、キスしてもいいですか?」
九条邸にお邪魔すると、ちょうど日課のランニングから帰ってきた宏弥さんと鉢合わせた。シャワーを浴びてくるから部屋で待っててほしいと言われ、宏弥さんの部屋のソファに大人しく座って待っていた。何度も来た事はあったけど、一人でいるのはこれが初めてだ。そわそわとしながら部屋主のいない部屋をきょろきょろと見回す。
(あんまり見ちゃ失礼だよね)
そう思いながらも視線は泳ぐ。部屋の中は宏弥さんの香りがして、それだけで落ち着くような逆に落ち着かないような気分になる。そうやって悶々と過ごしていると、シャワー上がりの宏弥さんが戻ってきた。
「待たせたな、玲」
髪はまだ濡れていて、下ろした状態だ。それだけでもいつもと印象が変わって見える。ずきゅんと胸を打たれた気持ちになりながら思わず胸を抑える。そこで冒頭の台詞だ。思わず煩悩が駄々洩れてしまったのだ。
「おう! いいぜ」
そう言って宏弥さんはにっかりと笑う。
「それではお言葉に甘えて……」
私は立ち上がり、宏弥さんの傍に近づく。目を閉じてキス待ち状態の宏弥さん。しかし悲しい事に背伸びをしても、宏弥さんの唇に届かない。
「こ、宏弥さん……屈んでもらってもいいですか?」
「あ、悪い悪い」
そう言って屈みながらパチリと宏弥さんは目を開けた。思いのほか近い距離に移動してきた顔にお互い驚いて、「わっ!」と声を上げてしまう。
「はは、びっくりしたな!」
「宏弥さんがいきなり目を開けるから!」
「じゃあもう目開けないから早くな」
「え?」
「だって玲からキスしてくれるんだろ? 可愛すぎるから終わったら俺からもキスさせてくれ」
「~っ!」
トキメキで殺されそう。宏弥さんからのキスが早く欲しいから私は短いキスを宏弥さんに贈った。

恋人にキスをせがんでみた~九条壮馬の場合~

「そ、壮馬さん、キスしていいですか!?」
今日は私の部屋でお部屋デートの日。壮馬さんは心なしかウキウキとした様子で、私の部屋にやってきた。すっかり寒くなり、こたつを出した我が家のリビングは以前より狭く感じるだろう。ちょっと心配していたけれど、壮馬さんはこたつに興味を示し、早速スイッチを入れて、二人で並んでこたつに入った。元々一人で使うんだしと思って選んだ小さなこたつだ。こたつ布団の中で何度か足がぶつかる。その度に壮馬さんが驚いたような照れたような表情を浮かべるから、ちょっと我慢が出来なくなった。
「貴女からそんな事を言うなんて今日は随分積極的なんだな」
壮馬さんはテーブルの上に出していた私の手を取ると、指を絡める。その手は少し冷たくて、温めてあげたくてきゅっと強く握った。
「男の人に言う事じゃないと思いますけど、今日の壮馬さん、なんだか可愛くて…」
「俺を可愛いなんて言うのは貴女くらいだろう」
「可愛い壮馬さんを知っているのは私だけでいいんです」
壮馬さんの可愛いところを他の誰にも見せたくないなんて言ったら驚くだろうか。
少し照れ臭くなって目を伏せたタイミングで壮馬さんの顔が近づいてきて、頬にキスされた。
「そ、壮馬さん…!」
「唇には、貴女からしてくれるんだろう?」
そう言って少し意地悪く微笑む壮馬さん。
(この人は可愛いだけじゃない……というかむしろ普段めちゃめちゃかっこいいんだった…!)
顔が熱い。鼓動が壮馬さんに聞こえてしまうかもしれないと思いながら、私は壮馬さんにそっとキスをする。
「貴女の可愛い面を知っているのも俺だけで十分だ。他の人にはそんな顔、決して見せないでくれ」
「…壮馬さんの事、大好きって顔ですか?」
「ああ、その通りだ」
壮馬さんは小さく笑うと、今度は長いキスを私にくれた。

恋人にキスをせがんでみた~宮瀬豪の場合~

「豪さん、キスしてもいいですか?」
隣にいる豪さんに思い切って尋ねてみると、豪さんは少し驚いたように目を丸くした。
「玲さんからそんな事言われたら照れちゃいますね」
はにかんだような笑顔を浮かべ、豪さんは笑う。
九条邸でお花の手入れをしていた私たち。綺麗に咲いた花を見つめて嬉しそうに微笑む豪さんを見ていたら、ついつい口走っていたのだ。
花に微笑むように私を見てほしくなったのかもしれない。花にヤキモチを妬くなんて子供みたいだと我ながら思う。
「はい、どうぞ」
そんな私の心の内を知らない豪さんはそっと目を伏せ、私が届くようにと少し身を屈める。
改めて見ると整った顔立ち、睫毛だって長い。そして柔らかそうな髪。この人を形作るものはとても柔らかで美しくて、私が触れていいのか一瞬躊躇してしまう。
「……まだですか?」
「えっ、今します! するんで目を閉じててください!」
待ちきれなくなった豪さんが目を開けようとするので、慌てて豪さんの目元を手で覆う。とくんとくんと鼓動が早くなるのを感じながら、私はそっと豪さんの唇に唇を押し付ける。少し冷たいけど、柔らかな感触はいつもの通りで、小さな花が咲いた気分になる。
子供みたいなキスをして、豪さんから離れようとすると、彼の手が私の腰を抱き寄せる。
「ご、豪さん?」
「玲さんは可愛いですね。ここに咲いてるどんな花よりも可愛くて美しくて、いつまでも愛でていたいです」
「…っ、気づいてました?」
私のヤキモチに。豪さんは何のことですか? と笑うだけで、何も答えずに嬉しそうに笑うばかり。
「玲さんからキスしてもらえるなら、たまにヤキモチも良いものですね」
「やっぱり気づいてるんじゃないですか!」
思わずつっこむと豪さんは騒がしい私の唇を優しいキスでそっと塞いだ。

恋人のキョリ(郁玲)

「玲ちゃんってさ、本当に分かりやすいよね」
「え?」
時計の針が五時を回った頃、隣の夏目くんが頬杖を突きながら私の方を見つめ、そんな事を言い出した。報告書をまとめる手を一旦止め、夏目くんの方を見る。
「今日、これから用事あるんでしょ?」
「うん。そうだよ」
「珍しく髪も綺麗に巻いてるし、そのスカートも新しいのが一目でわかる。つまりデートでしょ?」
「デ!?」
思わずとんでもない声が出る。慌てて否定しようと口を開くが、夏目くんはもう既に私の方を見ておらず、「まあ、楽しんでくれば?」とだけ言って仕事に戻ってしまう。
開いた口を閉じ、私もパソコンに向き直る。今日は定時で上がりたいのだ。なぜなら……夏目くんに言われた通り、今日はデートだから!
息を切らしながら駅へ向かう道を駆け抜ける。干定時を過ぎてしまったが、この調子でいけば待ち合わせの時間には十分間に合いそう。待ち合わせ場所である駅前に到着すると、ショーウインドウを鏡にして、髪をちょいちょいと直す。朝張り切って巻いた髪は夕方になると力を失い、解けてしまっているが、ゆるふわという事でイけるだろう。退社する前に直した化粧も再度確認する。
(やっぱりリップの色、もう少し落ち着いた色が良かったかな。新色可愛くて買っちゃったけど、ちょっと派手かも)
リップの色を気にして、うーんと悩んでいるとショーウインドウに映る私の背後にふっと人が映り込む。
「おい、そんなところで百面相をやるな」
「郁人さん…!」
郁人さんは無遠慮に私の頬をむにっと触り、不機嫌そうな顔をする。
「頬、冷たくなってるだろ。建物の中で待ってればいいのに、風邪引いたらどうするんだ、アンポンタン」
「ここの方が郁人さんが着た時、すぐ分かるかなーと思ったんで。それに私、丈夫なのが取り柄なんで大丈夫です!」
「ちっ、大人しくこれでも巻いて、エリマキトカゲにでもなってろ」
郁人さんは自分がしていたマフラーを外すと、私の首にかけ、ぐるぐるに巻いてくる。もこもこして温かいが若干苦しい。
「でも郁人さんが寒いんじゃ?」
「お前見てる方が寒い。さっさと行くぞ」
「…ありがとうございます」
郁人さんの優しさで胸がじんわりと温かくなる。先に歩き出した郁人さんを急ぎ足で追いかけ、彼の隣を歩きだした。

郁人さんとは付き合い出して、数か月が経つ。付き合うまでに紆余曲折あったものの、お付き合いは至って順調だ。今日は互いの仕事が落ち着いていたので、久しぶりに飲みに行く約束をしていた。
「ここの焼き鳥屋さん、つくねと軟骨がめちゃくちゃ美味しいんですよ! 是非郁人さんにも食べてほしくて」
メニューを見ながら力説すると郁人さんが小さく笑う。「久しぶりに飯行こうって言って、焼き鳥屋に連れてくるとは……さすがだな」
「それ、褒めてないですよね?」
「ああ、褒めてはいないな」
おしぼりで手を拭き終わった郁人さんは私の頬にもう一度触れる。郁人さんのマフラーと店内の温かさですっかり体温を取り戻したことに安堵したのか、郁人さんが小さく息を吐いたのが分かった。
(郁人さんって過保護なんだよなぁ)
多分それは私に対してだけじゃない。瀬尾研のみんなの事も大切にしている事は私もよく知っている。ふふ、と思わず笑うと郁人さんが私の顔を覗き込んでくる。
「何にやけてんだ」
「いえ、郁人さんって子供が出来たら確実に過保護なお父さんになりそうだなぁって」
「なっ…!」
「お待たせしました~! 生二つです!」
郁人さんが顔を赤らめたのとほぼ同時に注文していた生ビールが運ばれてきて、ドン! とテーブルに置かれる。
「郁人さん、食べたいもの決まりました?」
「……お前の好きにしていい」
「じゃあ、とりあえずオススメを注文しちゃいますね」
店員さんに注文をお願いすると、元気よく「かしこまりました~!」と言って去っていった。
「それじゃ、今週もお疲れ様でした!」
「お疲れ」
ジョッキを手に、乾杯するとすぐさま口をつける。ここのお店はきめの細かい泡を入れるのがとても上手で、いつもよりビールをとても美味しく感じる。
「はぁー、美味しい!」
「お前、ひげ出来てる」
「え!?」
慌てて拭こうとすると、それより先に郁人さんの手が伸びてきて、私の上唇らへんを親指で拭う。
「も、申し訳ないです…」
「俺がいないところでは気をつけろよ」
「いえ、郁人さんがいるところの方が気をつけなきゃいけないのでは?」
「は?」
「だって…デートですし」
好きな人に泡で出来たひげを見られる方が恥ずかしい気がする。ごにょごにょと言葉を続けると、郁人さんはピンと私のおでこを軽くはじく。
「あたっ」
「無防備すぎるんだ、おたんこなす」
郁人さんは言うだけ言って、ビールを煽るようにぐびぐびと飲み、一気に半分くらいまで飲んでしまう。ジョッキから唇を離すとほぼ同時に口元をぬぐってしまい、郁人さんのひげをぬぐおうと用意していた手は空振りしたので、代わりに枝豆に手を伸ばす。
「郁人さんの隙をつきたいです」
「百年早い」
それから、注文していた焼き鳥たちが運ばれてきて私たちは美味しく楽しくお腹いっぱいになるまで焼き鳥を食べ、お酒を飲むのだった。

トイレから戻り、そろそろお会計を頼もうとすると郁人さんが「もう済ませた」とさらりと言って、最後に出てきた温かいほうじ茶をすする。
「郁人さん、スマートすぎません?」
「どっかの誰かが抜けすぎてるんだろ」
私もほうじ茶をすすりながら、郁人さんをちらりと見る。ふと視線をテーブルに落とすと見慣れない紙切れが数枚置いてあった。
「これはなんですか?」
「お前にやる。このエリアでやってる福引の券だそうだ」
「へぇ~! それじゃこの後引きにいってみましょうよ」
「馬鹿か、時間を見ろ。もう十時を過ぎてるんだ。とっくに終わってるだろ」
「あ、本当だ」
福引券には朝十時から夜八時までと書かれていた。
「せっかくもらったのに……残念ですね。ほら、一等は温泉旅行ですって。あ、二等は液晶薄型テレビ! 気合入ってますね~!」
「ふん、よくあるラインナップだろ。それにお前の引きなら、参加賞のティッシュが関の山だ」
「そんなに引き悪くないですよ、多分! 何かしらの賞は引き当てる自信があります!」
「へぇ。お前はもう俺のようなハイスペックな男を捕まえた事で運を使い果たしたと思うけどな」
自分で言っちゃうんだ、ハイスペックって! でも確かにその通りなのだ。先ほどの通り、このスマートさ。何事もそつなくこなす器用さ。自分でハイスペックと言い切ってしまえる自信に溢れる姿に納得しかない。
だけど、ここで言い負かされてなるものか。私は少し胸を張りながら、ふふんと郁人さんを見つめる。
「郁人さんも運を使い果たしちゃったんじゃないんですか? 私っていう最良物件を捕まえちゃったんだから」
郁人さんの真似をして言い返してみるが、これはなかなか恥ずかしい。そして郁人さんは何も言わずにお茶をずずっとすする。ああ、周囲は楽しそうに焼き鳥を食べて談笑しているのに、なんで私たちの間には沈黙が流れるのか。
「そうかもな」
長い長い沈黙の後、郁人さんがそれだけ呟く。顔は仄かに赤くなっている。
「…郁人さん、もしかして酔ってます?」
「お前じゃないんだ。酔うほど飲むか」
それはつまり――意味を考えたら、途端に酔いが回ったみたいに顔が熱くなる。それを誤魔化すように残っていたお茶をぐいっと飲み干した。
「そろそろ帰るぞ」
「は、はい!」
立ち上がった郁人さんを追いかけて私も席を立つ。外に出ると冷たい風がぴゅーっと吹く。コートの前を手で合わせ、首元を押さえるがそんな事お構いなしに入ってくる隙間風にぶるりと身体を震わせる。
「玲」
名前を呼ばれ、顔をあげると再びマフラーを巻かれる。さっきより幾分丁寧に巻かれたのは気のせいではないだろう。マフラーを巻き終わると郁人さんは私の手を取り、駅に向かって歩き出す。
「郁人さん、大好きです」
「……っ」
繋いだ手をそっと握り返して、胸いっぱいに広がった気持ちを伝える。郁人さんが大好きだ。付き合い始めて、何度そう思ったか数えきれないくらい好きなのだ。
「往来でそんな事よく言えるな、あんぽんたん」
「でも、周りに人いないですし。誰も聞いてませんよ」
「聞いてなくても見てる奴がいるかもしれないだろ。そんな緩みきった顔、俺以外に見せるな」
「ふふ、気を付けます」
冷たい風は郁人さんのマフラーと郁人さん自身のおかげでへっちゃらに感じた。
焼き鳥もビールも美味しくて、それを一緒に楽しんでくる大好きな恋人が隣にいる。私は今、世界で一番幸せかもしれないなとこっそりと微笑んだ。

郁人さんとデートした翌日。私は仕事帰りに福引券を握りしめ、福引会場までやってきた。
(本当は郁人さんと一緒に来たかったんだけど、福引するためにわざわざ呼ぶのも申し訳ないし……仕方ない。私の力でポケットティッシュ以外のものを!)
握りこぶしを作り気合を入れてから、福引の列に並ぶ。ガラガラと福引器が音を鳴らしている。その後に「あー」とか「残念!」とかよろしくない言葉が続く。貼りだされたポスターによるとまだ一等も二等も出ていないようだ。テレビ、もう少し大きいの欲しいなって思ってたから二等でも当たったら嬉しいな、などと空想しているうちに私の番が回ってくる。
「これお願いします」
「はい! それじゃあ、ゆっくり三回回してくださいね」
ハンドルをぎゅっと握り、私はゆっくりと回していく。ガラガラと音を立てながら一回転すると出口からぽんと白い玉が一つ出てくる。
(あ、外れ…)
次も白い玉。これは郁人さんの言う通り参加賞しか持って帰れないかもしれない。そう肩を落としながら回した最後の一回。
「え?」
ころんと出てきたのは――


「瀬尾さん、さっき渡した書類どこに置きました?」
「ああ、郁人くん。あれはここに……おや、ないね」
「あれは今日チェックが必要なものだからすぐ目を通すようにお願いしたと思うんですけど、その書類ごと記憶の彼方にやりましたか」
「チェックは終わったんだ。それで郁人くんに渡そうと思って持っていたはずなんだけど」
「瀬尾さん~! 流し台にありましたよ。はい、これ」
「ああ、ひかるくん。ありがとう」
「いいえー」
「はい、その場でもう一度確認して俺に渡してください」「うん、ありがとう。郁人くん」
瀬尾さんのおとぼけにため息をつきながら両腕を組んだところで、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出してみると、そこに表示されていた名前は【泉玲】だった。
「ちょっと出てくる。ひかる、瀬尾さんがその書類なくさないようにきちんと見ておけ」
「はーい、いってらっしゃーい」
ひらひらと手を振るひかるに見送られながら、俺は研究室を出る。軽く咳払いをした後、通話ボタンを押して耳に押し当てる。
「どうした、何かあった――」
『いいいい郁人さん! 運! 運に見放されてなかったです!』
「は?」
ざわざわとした音の中、玲が落ち着きのない様子で支離滅裂な言葉を吐く。危険な場所にいるのかと一瞬思ったが、ただの人混みのようだし、心配はないだろう。出来る限り落ち着いた声で玲に話しかける。
「落ち着け、玲。何があったんだ?」
『福引の一等が当たりました!』
「……は?」
『昨日もらった福引を引きに来たんです! そしたらなんと一等の温泉旅行が当たっちゃいましたよ! やりました!』
「あー、あれか」
そういえば昨日焼き鳥屋でなぜか福引券をもらった事を思い出した。そういえば何かしらの賞は引き当てる自信があるとか言ってた気がする。
『寒い季節だし、温泉ちょうど良いですね! 早速今度の週末とかどうですか?』
「ちょっと待て」
『え?』
こいつは何を言ってるか自覚していないんだろうか。
「どうして俺が行く事確定してるんだ?」
『郁人さんと一緒に行った焼き鳥屋さんでもらった福引ですし。それに郁人さんと一緒に温泉行くの楽しそうだなぁって。あ、もしかして温泉苦手でした?』
楽しそうな声でしゃべっていたかと思えば、はっとした様子で恐る恐る俺に尋ねてくる玲。顔を見なくとも百面相をしている事が想像ついて、思わず表情が緩む。
温泉っていったら……おそらく泊まりだろう。それを問題ない様子で誘ってくる玲に内心動揺を隠せない。
付き合い始めて数か月経ったが、俺たちの仲は未だにそういう仲にはなっていないのだ。
「俺に苦手なものがあるか」
『良かった! あ、すみません。仕事中に。嬉しくてついつい電話しちゃいました』
「ちょうど手の空いたところだったから良い。気を付けて帰れよ」
『もうすぐ仕事終わりそうですか?』
「ああ、もう少しかかるだろうけどな」
『もし良かったら晩御飯食べに来ませんか? 今からならちょうど良い時間になりそうですし』
「……そうだな。たまにはお前の手料理も悪くない。終わったら連絡する」
『はい! 分かりました!』
それから二、三言葉を交わして通話を終了させる。手ぶらで研究室に戻るのも不自然だろう。自販機でホットココアを買って、一口飲む。
(ぬる……あったか~いと書いておきながら看板に偽りありすぎだろ、これ)
小さく舌打ちをしながら、ココアをもう一口。
(なんであいつは無防備なんだ?)
改めてその問題にたどり着く。温泉旅行に誘って来たり、夕食を食べに家に来ないかと言ってみたり。付き合っているから当然と言えば当然なんだが、調子が狂う。
ココアを飲み干し、ゴミ箱に捨てて研究室へと戻る。
「郁人さん、おかえりなさい。これ、瀬尾さんから受け取った書類です」
「ああ」
「電話長かったんですね。それじゃ、僕は帰りまーす」
「電話? あ、」
そうだ、電話がかかってきて研究室から出たんだから手ぶらで帰ってきたっておかしくない。そもそも買ったココアをその場で飲み干しては買った意味もなかった。
(何をやってんだ、俺は)
心の中でため息をつきながら、俺は席に戻ると残っていた仕事に取り掛かるのだった。


「よし、これでばっちり!」
テーブルの上に料理を並び終え、私は満足げにそれを見下ろす。我ながら上出来だと思う。この季節は温かいものを食べたくなるから、今日は生姜をたっぷり効かせた鶏団子スープをメインにして、ホウレンソウの胡麻和えとさわらの西京漬けを焼いた。
インターホンが鳴り、液晶には郁人さんが映し出される。
「お帰りなさい、郁人さん。どうぞー」
「は!?」
何やら慌てた様子の郁人さんに小首をかしげる。何に慌てたのかは後で聞いてみよう。ぱたぱたと玄関まで移動し、エレベーターが到着するであろう頃合いを見計らって家のドアを開ける。しばらくすると廊下の角を曲がって、郁人さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「郁人さん!」
「お前はエスパー気取りか。寒いんだから開けて待つな」
少し歩調を早め、郁人さんが私の元へやってくる。私を押し込むように玄関へ入ると突然後ろから抱きしめられる。
「郁人さん?」
「やっぱり冷たくなってるじゃないか」
「えー、外から来た郁人さんの方が冷たいですよ。ほら、やっぱり」
郁人さんの手に触れるとすっかり冷えていた。温めるように手を重ねると郁人さんが手を引っ込めてしまう。「お前の熱がなくなるだろ」
「私はすぐ温かくなるから大丈夫ですよ」
「俺もすぐ温かくなるから大丈夫なんだよ」
郁人さんは靴を脱ぎ、部屋の中へと移動する。部屋の中の暖気に触れるとほっと表情が緩んだのを盗み見た私はこっそりと笑う。
「出来たばっかりなんで温かいですよ! 手洗って食べましょ」
「俺は子供か」
そう言いながらも上着を脱いだ後、洗面台で手をしっかりと洗って戻ってきた郁人さんは大変良い子だと思う。 向かい合って座り、いただきますと食べ始める。
「郁人さん。これ、自信作です。寒い季節にぴったり!」
「ああ、確かに美味いな」
鶏団子スープを飲みながら郁人さんが頷く。それが嬉しくて、私もスープを飲もうと手を伸ばす。
「んんっ、けほっ」
「慌てすぎて喉に詰まったか」
「いえ、そこまで慌てては…」
喉に何かがつかえたような嫌な感じがした。少し気にしながらもスープを飲むと生姜をたっぷり効かせたスープが喉を通り、身体の中からぽかぽかと温めてくれた。
「うん、美味しいですね」
「これなら毎日食べてやってもいいかもな」
「毎日だったらきっと飽きちゃいますよ」
でも、お世辞でも嬉しくてつい頬が緩む。郁人さんはそんな私に気づかずにスープを黙々と食べながら、最後の一口を飲み干す。
「お前が作るものだったら飽きるわけないだろ」
「…! そういうのは反則です…!」
郁人さんは時折とんでもないストレートな言葉を投げつけてくる。しかも剛速球。熱くなった顔を冷ますべくパタパタと手で仰ぐが一向に収まらない。
「郁人さん、おかわり食べますか?」
「ああ、もらう」
「今用意しますね」
器を受け取って、台所に移動して、私は思わず息を吐き出す。
(なんて心臓に悪い…!)
鼓動が早鐘のようだ。スープを温めてる間、胸を抑える。でも、毎日こんな風に郁人さんと過ごせるようになったらとびきり幸せかもしれない。そう思いながら、スープをよそって、郁人さんの元へ戻った。

夕食の後、お茶を飲みながらくつろいでいたが二十二時になる頃、郁人さんが立ち上がった。
「そろそろ帰る」
「え、帰っちゃうんですか?」
着たばかりの郁人さんのコートの裾を思わず掴むと郁人さんが驚いたように目を丸くして、その手を見た。
「帰って読まなきゃならない論文があるんだ。これが今生の別れでもないんだ、そんな顔するな」
「子供みたいでしたね、すいません」
ぱっと手を離し、作り笑いを浮かべる。郁人さんは難しい顔をしながら、私の腰に手を回し、ぐっと強く引き寄せた。
「郁人さ――」
押し付けられた唇は熱くて、ドキドキした。
「今日はこれで我慢しろ。また連絡する」
「…はい」
初めてでもないキス一つで舞い上がるなんてちょっと照れてしまう。玄関まで郁人さんを見送るために一緒に移動する。革靴を履いた郁人さんは私の方を振り返り、頭をぽんと撫でると「おやすみ、玲」と酷く優しい声でそう言った。
「おやすみなさい、郁人さん。気を付けて」
「ああ、じゃあな」
パタンと玄関のドアが閉じ、郁人さんの足音が離れていった後、私は玄関の鍵を締めた。
(今日は泊まる……とか言ってくれるかなって思ったけど、やっぱり無理だよね)
付き合い始めて数か月。キスは両手で足りないくらいしているけれど、それ以上の関係にはなっていない。
まだ朝まで一緒にいた事がないのだ。
「おやすみって言って、おはようって言える日はいつ来るかなぁ」
そっと唇を指でなぞる。
まだ郁人さんのぬくもりが残っている気がして、少しだけ恥ずかしくなった。

「んんんっ」
郁人さんが我が家で夕食を食べた日から数日。
あの日覚えた喉の違和感は日を追うごとに増していった。咳払いをするが、喉は一向に楽にならず、まだ午前中だというのに、今日何個目かになるのど飴を口の中に放り込んだ。
「玲ちゃん、風邪?」
「んー、そうかも? 最近一気に冷え込んだからだとは思うんだけど」
「玲ちゃんでも風邪とかひくんだ」
「それはどういう意味? でも体が頑丈なのが取り柄なんだけどなぁ」
「それなら泉、これを飲むといい」
「孝太郎さんはしれっと会話に混ざってきますね」
「由井さん、それは?」
由井さんが手に持っている謎の小瓶を指さすと、由井さんは得意げな様子で説明を始めた。
「泉が咳払いをした回数が十回を超えたところで泉に合うように栄養ドリンクを配合したんだ。これを飲めばたちまち良くなるはずだ」
「それはそれで怪しい……えーと、お気持ちだけ頂いておきます」
「やばそうな気配漂ってるしね」
夏目くんがくすっと笑う。それから私のデスクにある書類の束をいくつか奪って、ぱらぱらと確認する。
「玲ちゃんが元気になったらおごってもらうって事で。これは俺が引き受けるよ」
「じゃあ、こっちは俺が」
今度は今大路さんが私のデスクから書類の束をいくつか手に取る。
「仕方ないな、これは俺がやる」
そして青山さんも私のデスクから残りの書類を持っていく。私は慌てて、立ち上がって、呼び止めようとするが関さんが小さく笑う声が聞こえたので、思わずそちらを見た。
「泉、急ぎの案件があるわけじゃないし、今日はもう帰ってゆっくり休んだらどうだ?」
「でも……」
みんなそれぞれ仕事があるのに、私だけ甘えるなんて許されるはずがない。困った顔で関さんを見つめ返すと、関さんはそっと微笑んだ。
「泉はいつも頑張っているんだ。体調が優れない時くらいゆっくり休んだっていいだろう?」
ここで強情になってもかえって迷惑をかけるだけだ。私はみんなに向かって勢いよく頭を下げる。
「関さん……みなさん、ありがとうございます。治ったら必ず倍にしてお返しします」
「玲ちゃんのおごり、楽しみだなー。何にしようかな」
「夏目くん、あんまり高いものは駄目だよ!?」
そんな私たちのやりとりを聞いて、マトリの面々はどっと笑うのだった。

先輩たちの優しさに甘えて、私は早退させてもらい、よろよろとしながら家へ帰った。部屋に着くと、身体からどっと力が抜けた。パジャマに着替えて、すぐさまベッドに潜り込んで目を閉じる。
(あー、これは本当にやばいかも……)
熱いのに寒い。そして関節が痛い。これは熱が出る前兆だ、とぼんやりと頭に浮かぶ。薬は効かないから、汗をいっぱいかいて熱を下げるしかない。布団をしっかり被り、自分を抱きしめるように身体を丸める。ちょうどその時、枕の脇に置いたスマホが振動した気がしたが、手を伸ばす前に力尽きてしまい、そのまま眠りに落ちた。


おかしい。
スマホを開いて、トーク履歴を表示するが、未だに既読がつかない。いつも昼休みになると、玲の方から他愛のない事を送ってくるのに、今日はいつもの時間になっても連絡が来ず、我慢できなくなって自分からメッセージを送ってみたものの、それに既読がつかない。
(急ぎの案件が入ったとかか?)
でも今日の午後は瀬尾さんのところに資料を届けに
研究室へ来ると聞いていた。それのキャンセルの連絡もないのだから急ぎの案件が入ったという事はないだろう。
「郁人さん、コーヒー飲みます?」
「いらん」
「砂糖とミルク、増し増しにしておきますねー」
(会話が進んでる…!)
「潔くん、何か言いたそうな顔してる。潔くんも飲む?」
「あっ、手伝います…!」
「ありがとうー! じゃあ、郁人さんのコーヒーにミルクと砂糖たっぷり入れてくれるかな?」
「郁人さん、どうしたんでしょう」
「スマホを気にしてるようだから、誰かの連絡待ちかな」
「なるほど…」
ひかると潔が何やらひそひそと話してるようだ。余計なおせっかいを……と思わず舌打ちしそうになる。
「お前ら、コーヒー淹れるの済んだら、とっとと資料整理の続きやるぞ」
「はーい」
「分かりました! 郁人さん、これをどうぞ」
「ああ、悪い」
潔は急いだ様子で俺に近づき、コーヒーの入ったマグカップを手渡す。カップの中を覗くとミルクと砂糖がふんだんに入っている事が分かる色をしていた。
(たかが既読にならないくらいで焦る方が馬鹿だ)
甘いコーヒーを飲みながら、少し冷静になってきた。そう考えてる間もスマホが振動するのではないかと机の上に置いたスマホをちらりと見てしまうのは仕方がない事だ。ひとまずコーヒーを飲み干してしまおう。きっとこれを飲み終わる頃、玲が研究室にやってくるはずだ。
出来る限りのんびり味わうようにコーヒーを飲み干す。すると、まるで見ていたかのようなタイミングで研究室がコンコンコンコンとノックされた。
「はーい!」
ひかりがドアを開けると、そこにいたのは玲ではなかった。にっこりとうさんくさい爽やかな笑みを浮かべたまま、彼は口を開いた。
「こんにちは。瀬尾さんとお約束をしていた泉の代理で参りました今大路です」
「玲さんの代理? 今日は玲さん、来られないんですか?」
ひかるが俺の聞きたい事をさらりと口にする。
「ええ。実は体調を崩してしまって、早退させたんです。急な事だったので、こちらに連絡を入れる事も出来なかったので、代わりに書類を届けることにしたんです」
「…!」
体調を崩して早退だと? 日頃から体が丈夫なのが取り柄だと胸を張っていたが、やっぱりここ数日の急激な気温低下に体がついていかなかったのか。体調を崩したから、メッセージが既読にならなかったのかと状況は把握できたが、玲がどうしているのか分からない。
「そうなんですね、玲さん心配ですね。瀬尾さんは奥の部屋にいるので、どうぞ」
「ありがとうございます」
いつもなら自分が率先して案内をするのに、今日は体が動かなかった。パタンとドアの閉まる音がすると、潔が心配げにこちらを見ている事にようやく気付いた。
「あの、郁人さん……大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。どこをどう見たら大丈夫じゃなく見えるんだ」
平静を装うように空になったマグカップにコーヒーを注いで一口飲む。すると潔はためらいながらも口を開いた。
「その…今のはブラックですよね? 郁人さん、甘くして飲むのが好きなのにブラックを飲むなんて大丈夫じゃないと思います」
「!」
俺としたことがうっかりしていた。潔に指摘されて、ようやく口の中に広がる苦味に気づいた。思わず舌打ちをしてしまう。今日はもう講義はない。瀬尾さんも部屋での作業だけだから潔たちに任せても問題はないだろう。
「潔、急用が出来たから俺は帰る。何かあったらすぐ連絡しろ」
「…! わかりました! お大事にと伝えてください」
潔がほっとした表情を浮かべるのを見て、こいつらにまで筒抜けとは我ながら玲の事になると周りが見えないんだなとなんとも言えない気分になる。白衣を脱ぎ、パソコンの電源を落とすと俺は速足で研究室を後にするのだった。

車を走らせ、近くの薬局で色々と買い込んだ後に玲のマンションへとやってきた。近くのコインパーキングに車を停め、いつもならインターホンを鳴らすが、寝ているかもしれないのでもらっていた合鍵で開錠する。
玄関のドアを音を立てないようそっと開けると、乱暴に脱ぎ捨てられた靴を見つける。いつもなら揃えてあるのが常だ。揃える余裕もなかったんだと思うと不安は増した。革靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。薄暗い部屋の中、リビングを通り抜け、寝室に入るとベッドの中で小さな子供のように丸まって眠っている玲を見つけた。
「玲」
小さく名前を呼び、そっと額に触れる。発熱しているようで随分熱い。買ってきた冷却ジェルシートを額に貼ってやり、枕元にあった体温計を取り出し、脇に挟める。しばらく待つとピピ、と電子音が響いたので体温計を確認すると『三十八度五分』と表示されていた。
「ちっ、高いな……」
ひとまず上着を脱いで、すぐさま看病道具を揃える。濡らしたタオルで汗をぬぐってやり、しっかりと毛布をかぶせる。熱を下げるためにも、出来るだけ発汗した方が良いだろう。その後は一度部屋を換気してから室内を加湿する。ないと思って、加湿器を買ってきて正解だったなと思いながらテキパキと行動していくとやる事はあっという間に尽きてしまった。
「…辛そうだな」
再び汗をぬぐってやり、眠る玲を見つめる。そういえば初めて寝室に入ったなと気づいた途端、自分でも分かるくらい顔が熱くなった。
(こんな時に何考えてんだ、馬鹿か!)
自分で自分を罵倒しながらも、きょろきょろと寝室を眺めてしまう。リビングと同じでピンクを基調とした部屋だ。ここでいつも寝起きしてるのかと思うとそわそわと落ち着きのない気持ちになる。まるで男子中学生のようだと自分を笑ってやりたくなる。
「お前は無防備すぎるんだよ」
例え具合が悪くて忘れてしまったんだとしても施錠以外にロックもかけないと鍵を持ってる他人が入ってきてしまうだろう。現に俺がこうして部屋の中にいて、玲の寝顔を見ているんだ。あと、気軽に部屋に誘いすぎだ。付き合ってるからといって何があるか分からないのに、もっと一緒にいたいと言うのは反則だ。温泉旅行だって気軽に誘うな。どうなってもいいと言ってるのと一緒だろう。俺が余裕のある大人の男に見えてるなら大間違いだ。
「お前はどれだけ俺がお前を好きなのか、知らないんだよ。このアンポンタン」
元気になったらあれを言おうこれを言おうと考えながら、いつまでも玲の寝顔を見つめていた。


ひやりと額に冷たいものがあたった感触で目を覚ました。重い瞼をゆっくりと開けると、目の前にはここにいるはずのない人がいた。
「いく…とさん?」
「起きたか」
「あれ、どうして……」
熱でよく回らない頭で考えるが、答えは浮かばない。郁人さんは小さく微笑むと私の頬にそっと触れる。
「まだ熱い。大人しく寝ておけ。腹が空いたんならおかゆも作ってあるが、食べれそうか?」
「……もう少し眠ります。もしかして、看病しに来てくれたんですか?」
ようやく浮かんだ言葉を口にすると郁人さんの頬が赤く色づいた気がした。それから郁人さんは私の手のひらをぎゅっと握った。
「恋人が体調を崩したって聞けば誰だってそうする」
「郁人さんは誰にでも優しいから」
「は? 俺が誰にでも優しいだと?」
私の言葉が嫌だったのか、郁人さんは眉間に皺を寄せる。誰にでも優しいという言葉は語弊があるかもしれない。でも、郁人さんは自分の懐にいる人間には限りなく優しいと思う。そう言いたかったがうまく言葉が出てこない。すると郁人さんは堰を切ったようにしゃべりだした。
「俺が優しいからわざわざお前の看病に来たと思ってるんなら、お前の脳内は花畑どころじゃないな。誰がわざわざ優しいという理由だけで仕事早退してまで看病に来るんだ。お前の事が好きだからに決まってるだろう。そんな事も分からないんならとっとと寝ろ。完治してから足りない頭でよーく考えろ」
すこぶる不機嫌そうな声で郁人さんは言い切るとフンと私から視線を逸らした。その姿を見て、私はくすりと笑ってしまう。
「郁人さんって、私が思ってるよりも私の事好きでいてくれてるんですね」
「いいから寝ろ。余計な事考えると熱が上がるぞ」
かかっている布団をかけなおすと郁人さんは私の手を離した。手の中から郁人さんの熱が消え、急激に心細くなった私は慌てて郁人さんの手を掴んだ。
「郁人さん」
「なんだ」
「あの……私が目を覚ますまで、帰らないでいてくれますか?」
「当たり前の事を聞くな。とっとと寝ろ」
その言葉に心の底から安堵する。ああ、思っていたよりも心細かったんだなって今更ながら気が付いた。
繋ぎなおした手に安心しきった私はようやく目を閉じる。
「郁人さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
私が思ってたよりも郁人さんは私の事が好きで、そして私自身も自分が思っていたよりも郁人さんの事が好きなようだ。
そんな事を思いながら目を閉じると、あっという間に眠りに落ちていった。

高熱を出した日から一週間が経った。今ではもうすっかり良くなり、いつもの調子を取り戻していた。
「やっぱり玲さんがいると場が明るくなりますね」
「玲ちゃん、無駄に威勢が良いから」
「威勢が良いって誉め言葉じゃないと思うんだけど? でもその節は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」
久しぶりにランチをみんなで食べに来ている。いつもの焼き魚定食を注文した後、改めて頭を下げた。
「泉が元気になって良かったよ」
「関さん、ありがとうございます」
優しい上司や同僚に恵まれて、本当に幸せだ。それを噛みしめながらお冷を飲んでいると今大路さんが「あ」と何かを思い出したように口を開く。
「そういえば玲さんの代わりで瀬尾さんの研究室に行ったとき、帰る頃には早乙女さんがいなくなっていたんですよね」
「へ、へぇ~!」
「よほど大事な用事が出来たんでしょうね、きっと」
今大路さんは私の心を見透かしているんだろうか。乾いた笑みを浮かべながら、私はなんとかやり過ごす。
「お待たせしました~! 焼き魚定食のお客様~」
「ありがとうございます、待ってました!」
焼き魚定食を運んできてくれた店員さんが救世主に見える。元気良く手をあげると、「玲ちゃんは分かりやすすぎるなぁ」という夏目くんの声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。

ランチが終わって、お店を出るとビューと冷たい風が吹く。私は首元に巻いたピンク色のマフラーをぎゅっと抑えながら歩き出す。ピンク地に白とグレー、薄紫色のチェック柄が施されたマフラーは風邪が治った私に郁人さんがプレゼントしてくれたものだ。
『お前は無防備すぎるんだ。首元だってガバガバだ。そんなに油断してると喉元狙われるぞ』
そう言って渡された時は一体どんな防具を…!?とドキドキしたが、開けてみると可愛らしいマフラーだった事に驚いた。
郁人さんが優しいのは、私の事が好きだからなんだ。
マフラーを巻く度にそれを思い出して、つい頬が緩む。私も郁人さんに好きだと言う気持ちをもっと伝えていきたい。そう思った。
(明日、楽しみだなぁ)
そして明日は約束していた温泉旅行の日だ。
風邪を引いて、キャンセルしないように私はしっかりとマフラーを巻きなおし、歩き出した。


「温泉旅行って……」
普通、温泉旅行と聞けば最低でも一泊で温泉のある宿に宿泊すると思うだろう。よくよく聞けば、福引で当たった温泉旅行は日帰りで近隣の温泉にご招待!(昼食つき)というものだった。泊まりになると思い、内心そわそわしていた俺が馬鹿みたいだ。
「郁人さん、見てください! 立派ですね!」
「はしゃぐな、転ぶぞ」
赤い橋を渡り、たどり着いた建物はレトロな雰囲気もありながら立派な館だった。
受付で招待券を渡すと、部屋に案内される。部屋で施設の簡単な説明を受け、浴衣を手渡された。
「十二時には昼食をお運びしますので、それまでに戻ってきて頂きますようお願い致します。お部屋は十四時までご利用できますので、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」
「ありがとうございます!」
部屋に二人きりになると、玲は落ち着きのない様子で部屋の様子を見回す。
「凄いですね。もっと狭い部屋かと思いきや、二人で使うのもったいないくらい大きいお部屋ですね」
「そうだな。さっさと温泉につかりにいくか」
「そうですね! 行きましょう! これ、郁人さんの分の浴衣です」
「風呂上り、湯冷めしないよう気をつけろよ」
「大丈夫ですよ! もうピンピンしてますから」
つい一週間前に高熱を出して寝込んでたのが嘘みたいに元気だが、病み上がりなのだ。わざわざ今日温泉に来なくても良かったのではと考えてしまう。
「さ、行きましょ!」
玲に手を取られ、部屋を出る。女湯の入り口の前で玲と別れ、一人で男湯に向かう。俺たちのように昼間の温泉に来ている人も多少いるようで、脱衣所には何人か人がいた。服を脱ぎ、早速温泉に向かうと想像していたよりも広い景色が目の前に広がり、圧倒される。
(きっと女湯で、一人で感動してるんだろうな)
隣にいない想い人を想像しながら、体を洗って、早速湯につかる。ちょうど良い温度で、ほっと息を吐きだした。(温泉は悪くないが、玲と一緒にいられないのがつまらないな)
男女別なんだから仕方がないとはいえ、せっかく二人で過ごせる時間を別々に湯に浸かるのは淋しいものだと感じた。
(いつか……温泉に一泊する時は一緒に入れるところ探すか)
そんな未来がいつ来るか分からないが、想像して思わず笑みが零れる。多分、今の俺は生きてきた中で一番幸せだろう。
温泉を満喫し、約束した時間より少し前に入り口で待っていると玲が現れた。
「郁人さん、お待たせしました」
「随分早いな、ちゃんと温まったのか?」
「子供じゃないんですから、ちゃーんと肩まで浸かりましたよ、ばっちり!」
「そういうところが子供なんだよ、お前は」
ピンと額を軽くはじくと「あたっ」と玲が額を抑える。「でも、郁人さんの浴衣姿、新鮮ですね」
「お前も悪くないんじゃないか」
そう言いながら玲をまじまじと見つめると、浴衣からのぞく鎖骨が妙に艶めかしく見えて、思わず羽織をぐいっと中央に集める。
「わっ、どうしたんですか?」
「首元に気をつけろって言っただろ、アンポンタン」
「外じゃないから大丈夫ですよ。ほら、温かいし」
「そういう問題じゃない」
「?」
俺の言いたい事が分からないらしく、小首をかしげる玲を見て、思わずため息をついた。
胸元はしっかりガードさせながら、館内をのんびり歩く。売店には温泉宿定番の温泉まんじゅうが最前列で並べられていた。
「マトリの皆に買っていこうかな。郁人さんも瀬尾研のみんなに買っていきます?」
「ああ、そうだな」
土産も買い終わり、十二時前に部屋に戻る。そして十二時きっかりに料理が運ばれてきた。昼とは思えない豪華な料理に玲が目を輝かせていて、その姿が可愛いなと思った。
「凄い美味しそう! お酒が飲めないのが残念ですね!」
「飲めばいいだろう。追加料金を払えば済む話だろ」
「車で来たから二人とも飲むのは難しいじゃないですか。ここは我慢して、別の機会に美味しくお酒も頂きましょう!」
「別の機会…か」
刺身を口に運ぶ。弾力のある肉厚な鯛は確かに酒が飲みたくなる逸品だ。
「今度泊まりに来るか?」
「へ?」
「だから、泊まりに来れば酒も飲めるだろう」
「そっか、そうですね」
俺の言い訳じみた言葉に、玲は納得したような表情を浮かべる。
「良いですね、今度は泊りがけで来ましょうね」
「お前は本当に……」
「え? なんですか?」
「聞き間違えだ」
「いや、郁人さんしゃべってましたよ!」
「聞き間違えだ! ほら、小鍋も食べれそうだぞ」
「あ、本当だ!」
玲の意識を逸らす事に成功した俺はほっと小さく安堵のため息をもらす。
(簡単に泊りがけで来ましょうって言うあたり、警戒心がないにも程があるが……俺の隣で安心しきってくれるのも悪くはないな)
風邪で弱っていた時、傍にいてほしいと不安げな表情で俺を見つめた玲。俺が傍にいると言った時、心の底から安心したような表情に思わずときめいたのは内緒だ。
「郁人さん! このお鍋に入ってる肉団子、すっごい美味しいですよ! 早く食べましょう!」
「分かった、急かすな」
玲と過ごす時間はいつも胸が温かいもので満ちている。こいつも同じように感じてくれていればいい。

食事が終わり、温かいお茶を飲んで一息ついていると急に玲がそわそわしだした。
「忘れ物でもしてきたか」
「いえ、忘れ物はないです! 郁人さん、良いですか」
「何がだ」
鞄から綺麗に包装された包みを取り出すと、俺に向かって差し出した。
「看病してもらった上にマフラーまで頂いたので、私も郁人さんに何かお返しがしたいなって思って」
「俺が見返りを求めてやったと思ってんのか」
「いえ。違うのは分かってます。郁人さんが私に何かしたいと思ってくれたのと同じように、私も郁人さんに何かをしたいなって思ったんです」
「玲……ありがとな。開けてもいいか?」
「はい!」
玲から包みを受け取り、丁寧に包装紙をはがす。細長い箱に入っていたのはネクタイだった。ピンク色だが、落ち着いたトーンのピンクに白と赤のドットがプリントされている。
「郁人さん、いつも青系のネクタイしてるのでたまには可愛いのもありかなって思ったんですけど、どうですか?」
(絶対自分で買うなら選ばない色だな)
無自覚に自分色に染めようとしてるのだろうか。そう思ったら口元がにやけそうだ。
「ちょっと待ってろ」
ぴしゃりとふすまを閉め、浴衣から私服に着替える。
シャツの襟を正し、閉じていたふすまを開けて、玲の元へ戻る。
「俺に似合うかつけてみろ」
「え? 私がですか?」
「それくらい出来るだろ」
「うっ、頑張ります」
玲は慣れない手つきでネクタイを首にかけ、結ぼうとする。作った輪っかにネクタイを通すが、バランスがちぐはぐだ。
「あれ? なんだか変ですね」
「なんだかじゃなくて、凄く変だ」
「だって人のネクタイなんて結ぶ機会ないですし!」
「これから増えるだろう。覚えておけ」
「それって……?」
玲の顔が途端に赤くなる。何を想像したかは聞かなくても分かる。多分、俺と一緒だ。
「逃げられると思うなよ」
「それは脅しでは?」
すぐ近くにいる玲の腰をそっと抱き寄せ、体を密着させる。まだ浴衣のままだったので、感触がダイレクトに伝わり、心臓が跳ねる。
「今度ここに来る時は覚悟しておけよ」
「それは――」
何か言葉を紡ごうとした玲の唇をキスで塞ぐ。
久しぶりのキスは、俺の理性を吹き飛ばしかねない威力があった。
「郁人さん、大好きです」
「あんまり俺を試すな、馬鹿」
幸せそうに俺の胸元に頬を寄せる玲を見て、玲を抱く腕に少しだけ力を込めた。

エピローグ

前回は風邪でダウンしていたため、来れなかったので久しぶりの研究室だ。軽い足取りで、通い慣れた研究室に着き、ノックをするとひかるくんが私を迎えてくれた。
「玲さん、こんにちは! 体調もう大丈夫そうで良かったー!」
「心配してくれてありがとう、ひかるくん。おかげ様で元気になりました!」
「良かったです、玲さんの元気そうな顔が見れて」
「潔くんもありがとね、郁人さんから聞いたよ」
「あ、あの時は俺も動転していて!」
「ふふ」
いつもの椅子に座ると、郁人さんの席が空いている事に気づいた。私の視線に気づいたのか、ひかるくんが「郁人さん、今他の教授から呼び出されてるけど、多分もうすぐ戻ってくるんじゃないかな」
「そっか、ありがとう」
熱いコーヒーを飲みながら、郁人さんが帰ってくるのを待つ。今日は仕事ではなく、郁人さんとデートの約束をしていたので、迎えに来てしまった。最近は仕事もそこまで忙しくないおかげで夏目くんのように定時上がりが出来る日が少しだけある。みんなにお礼も言いたかったから研究室に来たけど、内緒で来たのはたまには郁人さんを驚かせたいなっていう悪戯心もある。
「今日の郁人さん、いつもと少し違うんだ」
「へえ、そうなんだ?」
どこが違うんだろう、ちょっと楽しみだ。ひかるくんと潔くんとおしゃべりをしながら郁人さんが戻ってくるのを待っていると、数分後研究室のドアが開いた。
「あのモーミン崩れが…! 長々としょうもない話に付き合わせやがって…!」
イライラした様子で戻ってきた郁人さんは私がのんきに研究室でコーヒーを飲んでる姿を見て、固まってしまった。
「仕事が早く終わったんで、迎えに来ました」
「あ、ああ。そうか。もう少し待ってろ」
「急がないで大丈夫です」
「すぐ済む」
郁人さんは自分のデスクに戻ると、力強くキーボードを叩き始める。その音を聞きながら、ひかるくんがこそっと私に耳打ちする。
「郁人さんのネクタイ。玲さん、可愛いの選んだね」
「!」
ふふとひかるくんは笑う。
「それじゃ郁人さん、僕たち帰りまーす」
「お疲れ様でした…!」
「ああ、気を付けて帰れ」
それじゃ、と別れの挨拶を済ませるとひかるくんと潔くんは一緒に研究室から出て行った。私は一人コーヒーを飲みながら、郁人さんの背中を見る。
(こうやって郁人さんの背中を見る時間、好きだなぁ)
一緒に過ごす時間、同じことをしていなくてもただ同じ空間にいるだけで幸せだと感じる。そういう関係って温かいなと思う。
それからしばらくして、郁人さんはパソコンの電源を切って立ち上がる。
「待たせたな」
「いえ、郁人さんの背中見てるの好きなんで大丈夫です」
「…!」
郁人さんの顔が赤くなる。
「今度から連絡なしに来るなら研究室じゃなくて、俺の家にしろ」
「もしかして迷惑でした?」
「違う」
郁人さんは私に大股で近づき、突然強く抱きしめた。
「郁人さ…!」
「お前が会いに来て嬉しくても、他の奴がいたらこうやってすぐ抱きしめられないだろ」
「…!」
今度は私が赤くなる番のようだ。
少しずつ、私たちの距離は近づいている。
郁人さんの背中に腕を回し、そっと胸に頬を押し当てる。郁人さんの首元にあるネクタイは私が贈ったピンクのネクタイだった。
(おやすみって言って、おはようって言える日は案外もうすぐ傍まで来てるのかもしれない)
そんな事を考えながら、郁人さんの少し早くなった鼓動を感じた。

素直に言えない(神玲)

明日は久しぶりに合わせる事が出来た休日。
急ぎの仕事を一通り片付けて、玲の自宅を訪れる。

「神楽さん、見てください!これ!借りてきたんです!」
じゃーんと言う効果音がつきそうな雰囲気で玲が僕に見せたのは、つい最近面白そうだと二人の話題にのぼった映画だった。
「へぇ。よく見つけたね」
「ちょうど返却になったタイミングだったみたいでラッキーでした。早速見ましょう」
テーブルの上にはグラスと軽いオツマミ。
(ちゃんと作ってるし…自分だって早く帰ってきたわけじゃないのに頑張って)
マトリという職業は決して楽なものじゃない。早くない時間に帰った日なんて、出来合いのものを並べたっていいはずなのに。
僕が来るから一生懸命作ったんだろう。
薄く切ることに失敗したらしい真鯛のカルパッチョに箸を伸ばし、口に放り込む。
玲はそわそわした様子で缶ビールを飲みながら、僕の反応を待っている。
「ねぇ。この鯛、厚すぎ。もっと薄く切れなかったの?」
「うっ…すいません、なかなかうまくいかなくて…あ、でもこっちの方気持ち薄めですよ!」
「……味は悪くないけど」
「! 本当ですか!?ありがとうございます!」
僕のたった一言でしょぼんとしたり、花のような笑みを浮かべたり、本当に忙しい。思わず小さく笑うと、泉も釣られたように微笑んだ。
映画はよくある悲恋もの。
僕が見たかったのはこの世界観に落とされた衣装の数々と背景とのマッチングだ。
エメラルドグリーンの海よりも、人物に目が行くアングルや、配置。とても上手だった。
「……っぐ、」
ふと隣から鼻をすするような音が聞こえてくる。ちらりと盗み見ると目を真っ赤にして、いつ涙が溢れてもおかしくない様子で映画にのめり込む玲の姿があった。
(本当、感情が顔に出すぎ)
笑ったり、怒ったり、困ったり、泣いたり。
くるくると変わる表情はまるで子供のようだ。
だけどーー
「玲」
名前を呼ぶとその瞳は僕のようを向いた。どんなに物語にのめり込んでいても僕の声に瞬時に反応する。嬉しくないわけがない。
そっと唇を重ねると堪えていた涙がぽろりと溢れた。
「か、神楽さん!」
「泣きたいならさっさと泣けばいいのに。ぐずぐず我慢してる方が気になる」
「そ、それは大変失礼しました…でもなんで」
なんでキスしたかなんて。そんな理由を求めなきゃいけない間柄じゃないでしょう。
「あんたの流す涙は他の事のためじゃなくて、僕のためが良いなって思っただけ」
「うっ…それは、その……」
目だけじゃなく、頬まで赤くなった泉を見て、僕は自分の失言に気づいた。
「もう良い、映画の続きに戻れば?」
「だって神楽さんが映画にヤキモ…」
「はぁ?なにいってんの、冗談言わないで」
「切り返しが早い…!ふふ、ありがとうございます」
ようやく玲はテレビに顔を戻す。けれど、甘えるように僕の肩にもたれかかり、指をからめて、くすくすと笑う。
「なに」
「明日楽しみですね」
僕もだよ、とは決して返せないけど。残っていた缶ビールを煽るように飲み干した。

キスしないと出られない部屋(樹玲)

「樹さん、この部屋は10回キスしないと出られない部屋なんです!」

「…はぁ?」

玲が突然おかしな事を言い出した。
ここは俺の寝室。昨夜、残業を終えて家に帰ってきたのは午前二時を過ぎていただろうか。
玲も自室で眠っているだろうと思っていたが、まさか俺の寝室のベッドで丸まっているなんて想像すらしていなかった俺は変な声が出そうになるのをぐっと堪えて、玲を起こさないように気を付けて隣で眠った。
そして、よく眠れたんだか眠れなかったんだが曖昧な睡眠時間を終えて目を覚ますと隣で眠っていた玲の姿はなかった。
寝起きの玲を見るのがささやかな楽しみだった分、肩を落としながら部屋を出ようとするとすっかり身支度を終えたいつもの玲が俺が部屋を開けるより先にドアを開け、俺の前に立ちふさがって、冒頭の台詞を述べた。

「樹さん、今日のご予定は?」
「今日は休みだからまだ目を通せてない持ち帰りの資料に目を通して、玲の好きな料理を作ろうと思ってたところだけど。あ、買い出しにも行った方が良いよな」

俺の言葉を聞いて、玲はぶんぶんと首を左右に振る。

「樹さんは休みがどんなものか理解していないです!休みの日はぐうたら過ごすんです!」
「お前だって休みの日、普段出来ない事してるだろう。それと同じだ」
「確かに忙しい平日じゃ手が回らない掃除だったり、洗濯物だったりもありますけど…それはそれとして。
せっかくのお休みなんですから今日はのんびりしてほしいんです。なので、この部屋を出たかったら私にキスを10回してください」

絵にかいたようなどや顔を決める玲。
おそらく誰かに入れ知恵されたんだろう、自分で何を言ってるか分かってないんだろうな。

「玲」

名前を呼ぶと、ぴくりと睫毛が揺れた。
ドアの前に立つ玲に一歩二歩と近づき、逃げ場をなくすと、玲の顎を軽く持ち上げた。

「樹さん…?」
「10回でいいのか?」
「え?-っ」

何かを言いかけた唇を自分の唇で塞ぐ。久しぶりに触れた唇はふにふにと柔らかく、わずかに開かれた隙間に舌を差し込むとあっさりと玲の舌を捕まえる事が出来た。
深くなっていくキスに驚いたのか、玲が俺の胸を押しているが、そんなもの知るか。
しばらく玲の唇と口内を堪能して、唇を離す。

「い、いつきさん…」

すっかり息が上がった様子の玲を見て、にっこりと笑って見せる。

「10回で済むと思ってんのか?」
「-っ!?」

キスで腰が抜けたらしい玲をひょいと持ち上げて、ベッドへ逆戻り。
持ち帰りの仕事も、家事も今はどうでもいい。
今はただ、この可愛い恋人を思う存分味わい尽くす事だけに集中しよう。

その日、キスを10回しても部屋から出る事はなかった。

ubriacone(ダンリリ)

※2018年10月に発行した「ローリングコースター」の再録です

 

先日、とんでもない失態を犯した。
パリスから届いた白ワインをリリィと二人で飲んだ夜のことだ。リリィの酔った姿を見てみたいという好奇心から彼女に酒を勧めた。それにあわせて飲んでいたらいつもより酒が回ってしまい、酔いつぶれてしまったのだ。リリィを酔わせる前に自分が酔いつぶれるなんて失態を犯しただけではなく、俺は普段心の内に留めている言葉を次々とリリィに向かって紡いでしまったのだ。
(記憶がなくならないという事がかえって辛い)
翌日、頭痛と共に次々と自らの行動を思い出しては頭を抱えた。リリィは「気にしないで。でもあんまり飲みすぎは駄目よ。体に悪いんだから」と頬を赤らめながら言った。

「ダンテ、随分浮かない顔をしているね」
「ニコラ」
ノックをしてニコラが執務室に入ってくると、俺の顔を見るなりそんな事を言う。
「そんな事はない。それより報告を」
「はいはい。 ダンテが心配していた街の様子だけど、ストラノの方も大分落ち着いてきていたよ。炊き出しに行っても問題はなさそうだね。念のため、護衛としてついていった方が確実だけど」
抗争が終わって、しばらく経ってようやくブルローネの街は落ち着きを取り戻してきたようだ。
「そうか、分かった」
「それで? 何に悩んでたんだい?」
報告を終え、 ニコラは楽しそうに俺に尋ねてくる。
リリィ絡みだと勘付いているのだろう。それが少し腹立たしくて眉間に皺が寄る。
「ああ、そういえばこないだ僕たちがいなかった夜彼女とワインを開けたらしいね」
「……」
「ダンテ、君は彼女とのことになるとこんなにも分かりやすい」
くくっと喉を鳴らして笑うアンダーボスを睨みつけるが、気にもとめない様子で言葉を続ける。
「そんな君の変化も、楽しいものだね」
ニコラは子供の成長を見守る親のように、目を細めて俺を見つめる。
「ニコラ、話は終わったんだ。俺は仕事がある」
「はいはい」
出て行けという事は伝わったようだ。ニコラは手をひらひら振ると執務室を出て行った。
パタン、と扉の閉まる音を聞いてから、俺は深く息を吐き出した。
リリィのことになると冷徹なカポでいられない。
そんな事はとっくの承知だ。だけど、他者からああやって指摘されるとどういう顔をしていいかわからない。もっとも、それも含めてニコラは楽しんでいるんだろうが。眉間を指の腹で揉み解していると、足音が近づいてくるのが分かった。この足音は――
「ダンテ、入ってもいいかしら」
ノックの後、リリィの声がする。返事をするとすぐドアが開いてリリィが入ってきた。
「お仕事、お疲れ様。ドルチェを作ったから休憩しない?」
「そうだな、少し休憩にしよう」
「ありがとう、ダンテ」
リリィは微笑むと、持ってきたドルチェとカフェラテをテーブルの上に置いた。今日のドルチェはトルタ・カプレーゼだった。俺が好きだと言った事を覚えていて、時々焼いてくれるのだ。それがたまらなく嬉しい。今日はリリィも一緒に食べようと自分の分も用意してきたようで、リリィは自分のフォークを持って、俺の様子を見ていた。あまり見つめられたままだと食べにくいのだが、俺の反応が気になってついつい見てしまうらしい。気にしないようにしつつ、フォークで一口サイズに割ったトルタ・カプレーゼを口に運んだ。
「美味しい」
「良かった!」
リリィの作るドルチェは美味しい。何を作っても上手だが、トルタ・カプレーゼは特に腕を上げたと思う。が――
「なんだかいつもと味が違う気がする」
「え、そう? ちょっと待って」
リリィも一口食べると、驚いたように目を見開いた。
「ごめんなさい、ダンテ。いつもよりブランデーが多く入っちゃったみたい」
ドルチェを作っている途中、レオとニコラが台所にやってきたらしい。その時に作りかけの生地をそのままにして離れてしまったそうだ。
「あの後、ブランデーをもう一回入れてしまったみたいね。作ってる途中に離れないように気をつけないと」
肩を落とすリリィを見ながら、二口目を食べる。
「いつもと味は違うが、これはこれで美味しい。気にすることはない」
「そう? ダンテがそう言ってくれるなら……でもあなたはもっと甘い方が好きでしょう? 今度は甘めの焼くわね」
「ああ、楽しみにしている」
ゆるりと微笑んで、カフェラレを飲みながらトルタ・カプレーゼを食べる。食べているうちに少し身体が熱くなってきたことに気付く。
「今日は少し暑いようだな」
「そうかしら、少し肌寒いと思っていたけど」
確かにリリィは薄手のショールを身に纏っていた。部屋を閉め切っているから熱が籠もったのかもしれない。これを食べ終えたら窓を開けようと思いつつ、トルタ・カプレーゼを口に運んだ。
俺の好物ということもあり、大きめに切り分けてくれたそれはまだ半分ほど残っている。
「ダンテ、顔が赤いわ。どうしたのかしら」
既に食べ終わっていたリリィが心配げに俺の頬に手を当てた。ひんやりとした手のひらが心地よくて思わず目を閉じる。
「本当だわ、ダンテ。少し熱いみたい。窓を開けるわ」
リリィが驚いた様子で、俺から離れそうとする。手が離れてしまった事に寂しさを覚え、俺はリリィの腕を強く引いた。
「きゃっ」
突然の事でリリィはバランスを崩し、そのまま俺の膝の上に乗ってしまう。
「ごめんなさい、ダンテ!」
慌てて膝の上から降りようとする体を後ろから抱き締め、首筋に額を押し付けた。
「おまえは冷たくて気持ち良いな」
俺の熱に驚いたのか、リリィの体がぴくりと反応する。
「リリィは抱き心地が良いからずっと抱き締めていたくなる」
「それは…ありがとう。ねえ、ダンテ。もしかして酔ってる?」
「おまえの足音が聞こえてくるだけで嬉しくなるんだ。さっきもドアがノックされる前からそわそわしてしまった」
「あ、ありがとう」
顔を上げ、リリィの首筋にそっとキスをする。花のように甘い香りがするのはきっとリリィの体からだ。
「リリィ、好きだ」
ずっと抱き締めていたい。ずっと触れていたい。その気持ちがぽろぽろと口から零れていく。
徐々にリリィの首筋が赤く色づいていく。
「リリィ?」
「ダンテ。あの…その、もう恥ずかしいわ」
振り返ったリリィの瞳が羞恥に濡れていた。そのあまりの可愛らしさに俺は堪えきれず、顔を引寄せようと手を伸ばして―
「そうだ、ダンテ。さっき言い忘れたんだけど」
ノックの意味を果たさないノックをして、ニコラが入ってくる。
「-っ!」
「あ、ごめんね。お邪魔しちゃったみたいで」
ニコラは俺とリリィの顔を見て、にっこり笑うと 「ごゆっくり」なんて言って部屋のドアを閉めた。
「~っ! ごめんなさい、ダンテ!」
リリィは全力で俺の手を振り払うと、物凄い速さで部屋を飛び出していった。
そこでようやく体の熱が引いていく。
「……またやってしまった」
まさかドルチェに入っているブランデーで酔うなんて。俺は深いため息をついて、すっかり冷えてしまったカフェラテを口に含む。
カフェラテの甘さが、この苦々しい気持ちを消してくれる事はなく。
(リリィにどんな顔をして会えばいいんだ…)
思わず頭を抱えて、机に突っ伏してしまった。

そのすぐ後、遠慮がちなノックの後に頬を赤らめたリリィが水を持って戻ってきた。
「ダンテ、次から気をつけるわ」
「…ああ、すまない」
ブランデーを入れすぎた事に対してか、それとも俺に酒を与えすぎないようにという事なのか。
渡された水を一気に飲み干すと、少し冷えた風が頬を撫でる。ちょうどリリィが窓を開けてくれたところだった。
「膝に乗るのはその……恥ずかしいけど、少しこうしているわ」
リリィはそう言って俺の頬を両手で包んだ。
「ひんやりしていて気持ち良いな」
「水を持ってくるついでに手を少し冷やしてきたのよ」
「おまえが冷たい思いをするのは良くない」
「その…私もちょっと、さっきので火照ってしまったからちょうど良かったの」
「……そうか」
「ええ。だから気にしないで」
リリィは優しげに微笑んだ。
その微笑みを見ると、胸が疼く。
そうだ、リリィといるといつもより酒が早く回ってしまう気がする。もしかしたらリリィの存在に酔っているからかもしれない。
(そんな事を考えるということはまだ酒が抜け切れていないんだろうな)
彼女の手に自分の手を重ね、リリィを見上げる。
「好きだ、リリィ」
酒の勢いではなく、心から今伝えたいと思ったから口にした。
「私もよ、ダンテ」
リリィの手のひらにそっとキスを送る。
リリィは幸福そうに笑ってくれた。

その夜、トルタ・カプレーゼに沢山のブランデーを入れたのはニコラだと発覚した。
「まさかダンテがあれくらいで酔っ払うとは思わなかったよ」なんて悪びれもせず言うものだから思わず銃をつきつけたのは仕方がないことだろう。

犬も食わぬ(エイフラ)

「ねえ、ねえ!エイプリル!今日はフランシスカのところに行くんだけど、エイプリルも一緒にどうかしら」

街をふらふらと歩いていると見知った顔――アリアと出くわした。
開口一番に魅力的なお誘いを受けたものの、どうしたものか。

「ふむ。さて、どうしようかな」
「いつもならすぐ頷くのに…もしかしてフランシスカの事怒らせたの?」
「人聞きの悪い事を言わないでくれ、アリア。フランシスカが私に怒るのはいつもの事だろう」

自分で言ってて悲しくなるが、彼女はよく私に怒る。
他の女性たちは私の誘いにすぐ色めくのに、彼女は澄ました顔で私の誘いを袖にする。

「エイプリルが怒らせるような事をするからよ。そういうのは早く仲直りした方が良いわ!」
「おい、アリア」

私の腕を掴むと、アリアは鷹の屋敷に向かってずんずんと歩き出した。
彼女たちは仲が良い。天真爛漫なアリアと、それを姉のように面倒を見るフランシスカ。
澄ました顔ばかりしているフランシスカが、アリアといると穏やかな笑みを浮かべる事もある。
それが少し、私には羨ましくも思える。少しだが。

 

ようやく鷹の屋敷に着くとアリアは「私がいたらフランシスカと仲直り出来ないでしょう?そう言ってアリアはオルガを探しに階段を駆けて行った。

(やれやれ、アリアには困ったものだ)

顎を撫でながら、この後の行動について考える。
やはりフランシスカに会いに行くべきだろうと踏ん切りをつけ、私は彼女がいつもいる場所を探した。

「おや、いない」

てっきり庭にいると思いきや、姿は見えず。
侍女を捕まえて、尋ねてみると出かけている事が分かった。

(待つか、探しにいくか)

散々悩んだ私は、探しにいく事に決めた。

 

エイプリルはいい加減だ。よくあれで狼の当主が務まるものだと何度思ったか分からない。
数日前、些細な事で喧嘩をした。いつもなら日をおかずに屋敷に遊びに来るくせに今回は数日経っても現れない。

(もうあんな男は知らない)

お兄様の友人だけど、私には関係ない。
そう心に決めて、買い物を済ませて鷹の屋敷へと戻る。
外の空気を吸っていくぶん気持ちが落ち着いたようだ。そう思っていた矢先、私の目の前にエイプリルが現れた。

「やあ、フランシスカ」

軽薄な笑みを浮かべ、私に向かって手をあげるエイプリル。

「……」
「君に会うために屋敷を訪れたんだが、不在だったからね。街に探しに行こうと思っていたところなんだ」
「誰も探してほしいだなんて言ってないわ」
「私が探したかっただけだ」
「まあ、珍しい」

この男が私を探すだなんて。思わずエイプリルの顔を見上げると、彼は小さく笑った。

「ようやく私を見てくれたね、フランシスカ」
「! さっきも見たでしょう。人聞きの悪い事を言わないでくれるかしら」
「それは失礼。ようやく私を見つめる覚悟が出来たのかな」
「あら、あなたの方こそ大勢の女性に相手にされなくなっても良かったの?」
「欲しいものが手に入るんなら、それも悪くない」

この人はいつも軽薄な笑みを浮かべて、軽薄な台詞を言う。
お兄様の友人だなんて信じられないくらいいい加減な男だ。

「……冗談はやめてちょうだい」

だけど、どうしようもなく心を揺さぶられる瞬間がある。
怒らせた謝罪もなしに私の隣を当たり前のように歩くエイプリル。
怒っている私が馬鹿みたいに思えて肩の力が抜けてしまう。

「せっかくだ。今日は一緒に夕食でもどうかな」
「おあいにく様。アリアと予定があるの」
「アリアの事なら心配いらない。きっとオルガがなんとかするだろう」
「まあ、あなたって自分勝手ね」

エイプリルと軽口をたたきながら、屋敷へ向かう。
この時間があともう少し続けばいいのに、と思うくらいにはエイプリルの隣が好きなのだと私は致し方なく実感するのだった。

癒し効果は絶大だ(桧山×玲)

「桧山さん、お疲れですか?」

仕事終わりに桧山さんと待ち合わせをして楽しくディナーをした後の事。
会った時から少し顔色が優れないなと思っていたけれど、やっぱりどこか疲れている様子の桧山さん。

「すまない、お嬢さん。心配させたようで」

ショートスリーパーだという桧山さんは毎日短い睡眠しかとらない。
それでもやはり忙しい日が続いているのか、疲れがたまっているようだと申し訳なさそうに口にする。

「桧山さん、お忙しいですし。あ、そうだ。もし良かったら、ハグでも…!」

そう言って、思わず両手を広げて見せると桧山さんはきょとんとした顔をした。

(あ、失敗した…!!)

桧山さんをくすりと笑わせたかっただけなんだけど、選択を失敗した事が恥ずかしくて顔に熱が集まる。広げた手を大人しく閉じようとした時、広げた腕の中に桧山さんがやってきた。

(こ、これは……)

もしかしてハグしていいという事なんだろうか。私は恐る恐る桧山さんを抱きしめる。すらりとしているけれど、触れてみるとがっしりとした身体にドギマギしていると桧山さんが私の頭に頬ずりをする。

「ひゃっ…!!」
「これは良いかもしれない。お嬢さんにはヒーリング効果でもあるのか?」
「いえ!そんな高機能は搭載していないのですが、三十秒のハグで、一日のストレスが三分の一が解消されると聞いた事があったので…!!」
「ふむ、なるほど」

ぎゅーっと抱きしめ、頭の中で駆け足で数えそうになりながらもきっちり三十秒数えた後、私は桧山さんから手を離す。

「つまり合計九十秒ハグをしていれば一日のストレスはなくなるという事か。貴女は凄いな」
「そ、それはなくならないのでは…?」
「試してみればわかるだろう。さあ、お嬢さん」

そう言って、今度は桧山さんが私を腕の中に閉じ込める。

「桧山さ…!」
「お嬢さんもお疲れだろう。顔に書いてあった」

まるで子供をあやすように抱きしめながらよしよしと頭を撫でる桧山さん。
あまりの出来事に心臓が破裂しないかと心配になるほど鼓動が激しく打っている。

(こんなに近かったら桧山さんにも聞こえてしまいそう…!)

私は桧山さんの腕の中で固く目を閉じながら、早く時間が過ぎる事をひたすら祈った。祈りから元素記号を数えるのにシフトしてからしばらく経った頃、ようやく桧山さんの腕から解放された。

 

解放された私の顔を見て、血色がよみがえったと思ったらしい桧山さんは「今度から会う時は必ずこれをしよう」と晴れやかな笑顔で言うのだった。

Unexpected(峰岸×市香)

人生とは何が起きるか分からない。
分からないからこそ、いくつもの可能性を想定して、それに対する手段を用意する。
なので、想定内の出来事に収まるのがここ数年の常だったけれど――

「人生とは何が起きるか分かりませんね」
「はい?」

隣にいる星野さんは不思議そうな顔をして、私を見ていた。
去年の今頃はまだ彼女と出会っていなかった。
まさか休日の昼下がり、彼女とこんな風に過ごす事になるなんて去年の私は想像もしていなかっただろう。

(そもそも特定の相手を作るつもりもなかったはずだ。なのに……)

「もしかしてお口に合いませんでした? 甘くなりすぎたかなぁ」

目の前には小ぶりなホールケーキ。真っ赤なイチゴがいくつか載っているそれの中央には「峰岸さん、HAPPY BIRTHDAY!」と書かれていた。

「まさかこの年になってホールケーキでお祝いしてもらうと思っていなかったので、感傷に浸っていただけですよ」
「! 量、多すぎました?」
「いえ、ちょうど良いサイズですよ。でも、さすがに年の数だけローソクを刺したら穴だらけになってしまいそうですね」
「今は数字の形をしたローソクも売ってるんですよ。便利ですよね」

綺麗に切り分けられたケーキを一口、口に運ぶ。
甘いものが得意ではない私のために星野さんが作ったケーキ。
くどくない甘味と、お酒がちょっと効いた大人の味だ。

「私くらいの年齢になると何かに心を動かされるといった出来事が少なくなっていくんです」
「そう、なんですか?」
「ええ。ですが、あなたといると不思議と揺さぶられるんです」

慣れてしまった恋愛の駆け引きなんて通用しない。
それを面倒だと思うはずの自分はすっかりどこかへいってしまって、目の前の彼女との時間を直に楽しんでしまっている。
だけど、そろそろ次のステップに進んでもいいだろう。

「市香さん。そろそろ名前で呼び合う関係になりませんか?」

彼女の手からフォークが滑り落ちる。床に着く前にぎりぎり彼女は手で受け止めた。

「そ、それって……」
「今日は私の誕生日ですから。欲しいものをねだっても罰は当たらないかと」

余裕ぶった笑みを浮かべてみせるが、正直もう余裕なんてどこにもない。
ただ彼女より随分大人な分、余裕を見せたいだけだ。

「…もう、私はあなたのものですよ。誠司さん」

真っ赤な顔をして、けれど私から視線を逸らす事なく言い切った。
ああ、可愛いだけではなく、凛々しさも兼ね備えた女性だったと思わず笑みが零れる。

「やっと、呼んでくれましたね」
「…誠司くんのほうが良かったですか?」
「あなたのお好きなように。私の愛おしい人」
「~! 降参です」

顔を両手で覆って臥せってしまう彼女を見て、あまりの愛らしさに笑ってしまう。
ああ、なんて幸せな日なんだろうか。
ビターチョコのケーキは、さっきよりも甘く感じたけれど、もっと愛おしく感じた。

 

 

いつもの朝(由井玲)

朝、身支度を終えた私は孝太郎さんの部屋へやってきた。

「孝太郎さん、おはようございます」

部屋に入り、中を見回しても姿が見つからず、寝室のドアを開けると低血圧な孝太郎さんはまだベッドでごろんと横になっていた。

「孝太郎さん、支度しないと遅刻しちゃいますよ」

ベッドに座り、孝太郎さんの肩を揺さぶる。次の瞬間、彼の腕が伸びてきてあっという間にベッドの中に引きずり込まれた。

「こ、孝太郎さ!?…んっ」

文句を言う唇は孝太郎さん自身のそれに塞がれて、言葉は最後まで言う事も出来ない。
段々深くなっていくキスに溺れないように彼の胸を叩くが、その手もからめとられてしまう。

「はっー」

ようやく唇が離れた頃には、すっかり私の瞳は潤みきっていて、私を見下ろす孝太郎さんを睨んでも全く怖くないのは分かっているが、少しでも伝わるようにキッと睨んだ。

「孝太郎さん…!」
「玲。言いたい事は分かってる。だけどそろそろ出ないと二人そろって遅刻しそうだ。」

名残惜しむように短いキスを私にすると、孝太郎さんはようやくベッドから起き上がった。
取り残されたのは私。

(言いたい事を確実に誤解されてるよね!?)

思わずベッドをバシバシと叩いていると、孝太郎さんの笑い声が耳に届く。

「それとも、今日は休んでずっとここにいようか?」
「仕事に行きます!!!」

慌ただしい朝。
それでも毎日キスを欠かさない孝太郎さんに私はいつも振り回されるのです。

あなたの好きなもの(ウサギ)

深夜、寝静まった頃を狙って、私は食材を運んでくる。
竹編みの籠に移そうと中を覗き込むと、今日も丁寧に四つ折りにたたまれた手紙が入っていた。
差出人は紅百合さんだ。

『ウサギちゃんが作ってくれた一問一答。頑張って続けてるよ。
緋影くんは山菜の煮物が好きなんだって』

手紙に目を通し、私は微笑む。
お兄様の好きな食べ物、そうだったんだ。
初めて知ったお兄様の好きな食べ物。山菜の煮物ってどんな食べ物だっけ、と思い出そうとしてもうまく思い出せない。
でもきっとお兄様が好きなんだから、とっても美味しいんだろうな。
私はその場でさっそく紅百合さんに手紙の返事を書く。

『緋影さんと仲良くなっているようでうれしいです。
山菜の煮物、美味しそうですね』

手紙を食材の下に差し込むと、私はそっと部屋を出た。

 

ウサギちゃんに緋影くんの好物について手紙に書いた日の翌日。
どっさりと置かれた食材は山菜の山だった。

(ウサギちゃん…!)

きっと山菜の煮物を作って、仲を縮めてください!!というウサギちゃんからのエールなんだろう。
私は籠を抱えて、キッチンへと移動する。

「おや、今日は山菜が山盛りだね」
「せっかくだから煮物にしようかなって」
「ああ、それは良いね」

キッチンにいた鉤翅さんも私の案に同意してくれる。
私は腕まくりをして、早速調理に取り掛かる事にした。

 

🐰

今日の食材は山菜をたっぷり入れておいた。
これできっと今日は山菜の煮物を作るだろう。

(お兄様が山菜の煮物を食べている姿が…みたい)

どんな風にして食べるんだろう。
昔見た笑顔を浮かべながら? それとも、感慨深げに食べるのだろうか。
想像するだけでそわそわしてしまう。

夕食の時間を狙い、私はこっそりと隠れ家に足を運ぶ。
音を立てないようにそぉっと扉を開け、ダイニングテーブルが見える位置へと向かう。
部屋の中にはお醤油の優しい香りが漂っていて、これがきっと煮物なのだろうと想像する。

「ウサギちゃん」
「!! べ、紅百合さん」

ぽんと肩を叩かれ、振り返るとそこにいたのは紅百合さんだった。
手には小皿を持っていて、私に差し出す。載っていたのは山菜の煮物だ。

「さっき緋影くんにも味見してもらったんだけど、美味しいって言ってもらえたよ。ウサギちゃんも良かったらどうぞ」
「でも……」
「ウサギちゃんがたくさん山菜くれたからまだまだあるから安心して!
あ、あとでゆっくり食べれるようにこっちの器にも入れておいたから。
夜になったら届けようと思ってたんだけど、ウサギちゃんが来てくれると思わなかったよ」

にこにこと紅百合さんが話す。
いつもより饒舌なのは、きっとお兄様が美味しいと言ってくれたからだろうか。
優しい紅百合さん。私は紅百合さんとお話すると、ほっと心が和らぐ。
お兄様もきっとそう感じているのではないかと私は思っている。

「いただきます」

せっかく用意してくれた煮物を無下にするのも失礼だろう。
私は仮面をずらし、さっそく小皿の煮物を頬張る。
甘じょっぱい味付け、山菜の歯ごたえの良い食感。なんだか懐かしい味がして、とても美味しい。

「美味しいです」
「そう? 良かった!」
「ありがとうございます、紅百合さん」

お兄様のために山菜の煮物を作ってくれて。
お兄様の好きな味を、私に教えてくれて。

ふと、どこかのドアが開く音がした。

「!」

紅百合さんと交流している場面を誰かに見られるわけにはいかない。
煮物が入った器を受け取ると、私は脱兎のごとくその場から逃げ出した。

(お兄様がどんな顔をして食べるのかは見れなかったけど……)

紅百合さんの笑顔。
山菜の煮物の味。
それのおかげで久しぶりに胸がぽかぽかと温かい気持ちになっている。

(いつか…お兄様と一緒に食べれたらいいな)

器を抱えながら、一人自分の部屋に戻りながら、私は叶うか分からない夢を願った。

 

もしもの話(真柘)

五年以上前の記憶はない。
けれど、俺はどうやら好きになった女の子の双子の弟らしい。
ふわふわとしたクリームのように柔らかそうな髪だと見つめていた彼女の髪は、良く見たら俺のそれと似たくせ毛のようだし。
目元も似ているかもしれないと隣にいる彼女をこっそりと盗み見ながら考えていた。

「知也?」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「疲れちゃったんじゃない? 私が代わりにかき混ぜようか」
「これを女の子の細腕でやるのは大変だよ」

俺が抱えていたボウルを奪おうと手を伸ばす彼女。
その手から逃れるために数歩横にずれると、距離をとった事が面白くなかったのか頬を膨らませて、彼女は俺に近づいた。

「だって知也がぼうっとしてるから」
「ごめん、姉さん。大丈夫だよ。もう少しで出来上がると思うから、姉さんは生地の様子を見てきて」
「うん、分かった」

ホールケーキを食べたいと駄々をこねたクランとラズのためのケーキ。
生地はもうすぐ焼きあがる。ホイップクリームもようやくつのが立った。
シャカシャカシャカシャカ、懸命にかきまぜたおかげで出来上がったホイップクリームを一口味見する。ちょうど良い甘さだ。これならフルーツの甘みの邪魔をしないだろう。

「知也、生地焼きあがったよ」
「ありがとう」

焼きあがった生地をケーキクーラーの上に反対にして冷ます。
本当は一日置いた方が美味しく頂けるんだけど、出来上がりを楽しみに待っている彼らにあと一日もお預けするのは可哀想だから、ちょっとくらい質が落ちるのは許してほしい。

「クリーム、出来た?」
「うん、ばっちりだよ」
「私も少し味見したいな」

近くにあったスプーンを使い、一さじ分掬うと彼女の前に差し出す。
それをためらいもなく、ぱくりと頬張る彼女。
俺が『真井知己』だった頃は、そんな風にしても彼女はためらっただろう。
ためらった後、俺からスプーンを受け取り食べただろうか。
それとも照れながらも俺から食べさせてもらうんだろうか。
どちらが正解なのか、それとも正解が含まれていないのかも今になっては分からない。

「美味しい?……姉さん」
「うん、美味しい。これなら二人とも喜ぶね」
「クリームが出来ただけじゃケーキは完成じゃないよ」
「そっか、そうだよね」

笑みを浮かべる彼女を見ていて、胸が痛むのはどうしてなのか。
恋をすると、心が躍るし、世界が輝いて見えるというのに。
俺の世界はまだ輝いていないよ。

(もしも、)

もしも俺が、君にキスをしたら君はどうするんだろうか。
そんな馬鹿みたいな考えが頭にこびりついて離れない。

「ねえ」

呼びかけると、彼女は小首をかしげて俺を見る。
君の瞳に映っているのは、僕じゃなくて、俺だよね?

そっと手を伸ばし、頬に触れる。つるりとした綺麗な肌。
俺なんかが触れてはいけない肌。

「知也?」

ああ、今俺の名前を呼んでくれたらためらいもなく君にキスが出来たのに。
例え血がつながっていようが、そうでなかろうが俺には関係ないと言えたかもしれないのに。

「クリーム、ついてたよ」

ついてもいないクリームをぬぐうように彼女の唇の端を指の腹でこすってやる。

「…恥ずかしいね、それ」
「気を付けてね、姉さん」
「うん、ありがとう。知也」

彼女が俺を、『知也』と呼ぶ度に。
俺の頭の中では、もしもの話が浮かぶんだ。
もしも姉弟じゃなかったら、俺と君は恋に堕ちる事が出来たんだろうか。
もしも姉弟じゃなかったら、君は俺に笑いかけてくれたんだろうか。
もしも姉弟じゃなかったら、君は俺の事を好きになったんだろうか。

けれど、そんなもしもは全て無意味で。
記憶があろうとなかろうと、俺と彼女を結ぶのは血の繋がり。
欠けたはずの半身が目の前にいる幸福感。

(君に好きって言いたかったな)

俺の初恋はどうしようもない現実の前でただただ押しつぶされる。
その先で、君が笑っていてくれるならそれでもいいやと思えるんだから恋というものは恐ろしい。

 

気を取り直して、俺は彼女に笑いかける。

「さ、続きをやろうか。姉さん」
「うん!早く二人を喜ばせてあげよう」

そう言って彼女は微笑んだ。

 

やればできる(那由ヒバ)

「ヒバリさん!!!!近いです!!!!!ごめんなさい!!!!」

私の恋人は泣きそうな声で叫んだ。
そう、恋人なのだ。それなのに抱き着いただけで泣かれそうになるとはどういう事?

 

「こうも毎日毎日逃げられると私も腹が立ってくるわ」

ぶすっと一突き。ランチに出てきた厚焼き玉子をお行儀悪く箸で刺す。
目の前の親友は苦笑いを浮かべながらも、相槌を打つ。

「でも、私は恋するヒバリ様が可愛くて微笑ましいですわ」
「微笑ましい…?」
「以前からヒバリ様は可愛かったですけど、恋をしてもっと可愛くなられましたわ!!」
「そ、そう…かしら」

自分では全く分からないが、褒められて悪い気はしない。
厚焼き玉子を食べながら、私は那由太くんの事を考えるのだった。

 

「おかえりなさいませ、ヒバリさん。今日もお疲れさまでした」

学校が終わり、那由太くんが迎えの車の前で私を待っていた。
紬が「頑張ってください、ヒバリ様!」とこそっとエールを送ってきたので私は小さく頷きながら車に乗り込む。
車中ではいつも通り。ボディーガード中は平常心を保つように頑張っているのは知っている。
家に着き、私室に戻って着替えて、私は那由太くんの部屋を訪れた。

「那由太くん?」

部屋を軽くノックすると、部屋の中から何かが崩れる音がする。
きっと私の声に驚いて何かに躓いて、何かを倒したんだろう。

「ヒバリさん?」

そぉっと開いたドアの隙間から那由太くんの顔が見えた。
私はぐいっとドアを引っ張り、強引に部屋に押し入った。

「那由太くん。私、今日すごく頑張ったの」
「さすがヒバリさんです!」

東条家の名に恥じない振る舞いをすること。それは私が生活をする上で最も優先していることだ。
だけど、この家の中。言ってしまえば那由太くんという恋人の前ではくつろいだっていいはず。

「私、偉いかしら…」
「はい! 偉いです!!!」

そんな風に尋ねたのは生まれて初めてだ。がらでもない言葉を口にして頬が熱くなったが、それでも私はこの先にある欲しいもののために手を伸ばす事に集中する。

「だったらご褒美に抱きしめてもらえないかしら?」

紬のアドバイスのもと、私はとても思い切った言葉を口にする。
那由太くんはご褒美を欲しがる人だった。つまりはそういう側の人間の気持ちならわかるだろうと。
私がご褒美をねだったら、与えようと頑張ってみるんじゃないかと。
言われてみたらその通りかもしれないと思い、私は意気込んで那由太くんに向かって両手を広げてみた。

「~~~!!!!」

しかし、那由太くんは固まったまま動かなくなった。
しばらく見つめてみたが、赤い顔のまま完全に静止してしまっている。

「…えい」

仕方ないから私は中途半端に広げられた腕の中に自分から飛び込んで、那由太くんの背中に手を回した。
伝わってくる温度に少しだけ安心する。ああ、私は那由太くんの腕の中にいるんだと。
そして、やたらと早い那由太くんの鼓動が伝わってきて思わず笑みが零れた。

「那由太くんの鼓動、すっごく早い」
「…!! ヒ、ヒバリさんがすごく近くにいて、なんだか良い匂いもするから!!」

固まっていた手がようやく動き、私は那由太くんに抱きしめられた。

「これでご褒美になりますか?」
「ふふ、うん。なったわ、ありがとう那由太くん」

私が返事をすると、安心したのか耳元で安堵のため息が漏れた。

「でも、もう少しだけ」

離れようとした体を逃がすまいと強く抱き寄せて、私はねだる。
那由太くんはあわあわしながらも結局は私の願いに応じて、私をしばらく抱きしめてくれた。

「私、毎日頑張ってるからこれからは毎日お願いするわ」

体を離した後、にこりと笑っていうと、那由太くんは泣きそうな顔になりながら「毎日は許してください!!!!」と叫ぶ。

少しずつ那由太くんを慣らしていこうと私は心の底から誓うのだった。

 

私の可愛い人(壱ヒバ)

私の恋人は可愛い。

(恋愛をするまで知らなかった。男の人を可愛いと思う事もあるだなんて)

鼻歌を歌いながらキッチンで料理をする壱哉さんの背中を見つめながら、私はそんな事を考えていた。
紬が聞いたら「萌えですわ!!!!」とか言いそうなので絶対口に出していう事はないだろうけど、壱哉さんの事を可愛いと思っているのは本当だ。

「壱哉さん、何を作ってるの?」

醤油を焦がしたような香ばしい匂いの正体が知りたくて、私は壱哉さんの背中にぴたりとくっついて手元を覗き込んだ。

「ヒ、ヒバリさん!」

恋人になってしばらく経った。
私からこうやってくっつく事も随分自然に出来るようになったと思う。
最初の頃は恥ずかしかったけど、私がくっつく事により壱哉さんが驚く程嬉しそうな顔をするのだ。
それが可愛くて、気づいたら恥ずかしいだのなんだの言ってられなくなった。

「これはいも餅だよ」
「いも餅!」

子供の頃、スミ子さんが時々作ってくれたおやつだ。
じゃがいもを潰して作ったいも餅に甘じょっぱいタレをからませて頂くのだ。

「スミ子さんに教えて頂いたんだ、ヒバリさんが好きだって」
「もう…」

気づけば壱哉さんはすっかりスミ子さんと仲良くなっているらしい。
それが羨ましいようなずるいようなちょっと複雑な気分だ。

「お行儀が悪いけど、さっそく一つ味見でもどうかな」
「! いただくわ!」

出来たばかりのいも餅を小皿に取り分けて、私に手渡す。
さっそくお箸で割って、ぱくりと頬張る。
お餅とも違うけど、もっちりとした食感と甘じょっぱいタレが美味しくて、私は頬っぺたを抑えたくなる衝動に陥る。あっという間に一つぺろりと食べてしまった。

「すっっごく美味しかったわ」
「良かった、ヒバリさんの笑顔が見れて」

壱哉さんは安心したように私の唇の端を指で拭うとそれをぺろりと舐めた。
そういうさらりとした動作に、ちょっとときめく自分もいたり…いたりする。

「壱哉さんって」
「ん?」

可愛いだけじゃなくて、かっこいい。
そんな分かりきっていた事を自覚させられるとどうにも負けた気分になるのはどうしてだろう。

「なんでもないわ」
「意地悪だな、ヒバリさんは」

小さく笑うと、壱哉さんは私をきゅっと抱きしめる。
トクントクンと伝わる鼓動がいつもより早い。
ああ、壱哉さんもドキドキしてるんだなと思うと、かっこいい壱哉さんの中にもいつだって可愛い壱哉さんが存在するんだなと思って、自然と笑みが零れた。

(大好きな、私の可愛い人)

 

あなたに心を奪われた(ミズヒヨ)

「いい匂いがするね」
「おかえりなさい、ミズキさん」

ここはミズキさんが一人暮らししている家。
モノトーンを基調とする素敵なお部屋の中に一部混ざるカラフルなもの…それは私のものなんだけど、それが馴染むようになったのはいつ頃だっただろうか。

今日はミズキさんの家で夕食を作って、帰りを待っていた。
情報局に勤めるミズキさんはとても多忙だ。
だけど、私と会う日はこうやってなんとしても時間をもぎとってくれる。

「忙しかったんじゃないんですか?」
「ずっと忙しくても息が詰まっちゃうからね。
それにヒヨリに会えると思ったら、仕事も随分捗ったよ」

そう笑って、ミズキさんは私にウィンクをする。
今日は特別な日だ。
私とミズキさんがアルカディアから戻ってから一年経った日だ。
テーブルに料理を並べると、ミズキさんが冷蔵庫から何かを取り出して、何やら用意を始める。

「何作ってるんですか?」
「きみももう大人になったんだ。これくらい用意してもバチは当たらないだろう?」

ミズキさんが用意していたのはシェイカーだ。
アルカディアにいた頃、これを使ってカクテルを作るミズキさんを目撃した事がある。
シャカシャカと振る姿を隣で見ていると、ミズキさんはくすりと笑う。
しばらくして、シェイカーからグラスに出来上がったそれはオレンジ色の綺麗な液体だった。

「凄い綺麗ですね!」
「本当はわざわざシェイカーを使わなくてもいいものだったんだけど、せっかくだしね」

仕上げにオレンジを添えると、ミズキさんは私に手渡した。

「これはなんていうカクテルなんですか?」
「スクリュードライバーだよ。良く聞く名前だと思うけど、飲みやすいからって飲みすぎには気をつけなきゃいけないお酒だ。今日はそんなにアルコールを多くしてないけど、酔ったらすぐ言うんだよ」
「はい!」

そしてミズキさんは自分の分も用意して、私たちは席についた。

「きみとこうやって一緒にお酒が飲めるなんて時が経ったなぁと思うね」
「私は嬉しいです」

アルカディアから戻ってきた時、二年近く時が経っていた。
そして私は今年、二十歳になった。
もう子供じゃない。

「ミズキさん、これからもずっと傍にいてくださいね」
「それは僕が言うセリフだったのに」

くすりと笑う。
ミズキさんの隣にいるためなら私だって成長するのだ。
あなたの手を取って歩ける人間に私はなりたいから頑張れる。

「ヒヨリ。いつまでもきみの隣は僕のものだ。いいね」

真剣な瞳で私を射抜き、ミズキさんは綺麗に微笑んだ。
ああ、やっぱりこの人には敵わない。

笑みを零しながら、私たちは乾杯をした。

何度生まれ変わってもあなたを愛する(トモヒヨ)

放課後。
トモセくんがクラスまで迎えに来てくれて、私たちは一緒に下校する。
今日はトモセくんと付き合って一年の記念日だ。

「ヒヨリ、悪かったな」
「ううん。だってもうすぐ舞台だもん」

そう。今日はトモセくんの部活があったため、記念日を祝うデートには行けなかった。それを申し訳なさそうに謝るトモセくんはちょっと可愛い。

「次の劇、私も楽しみにしてるから頑張るトモセくんの事応援してるよ」
「ありがとう」

次の劇では、トモセくんは準主役なのだ。それが楽しみで、私はワクワクしている。
そう言って、話しながら家の前に着く。
一緒にいる時間ってどうしてこんなにあっという間に過ぎてしまうんだろうか。
前はそんな風に考えなかったのに、トモセくんと付き合うようになってから彼と過ごす一分一秒がもう少し長くなればいいなと考える自分がいる。

(それだけトモセくんの事好きなんだなぁ)

そう思うと少しくすぐったい。
ずっと大事な幼馴染だったトモセくんは、今では私の大事な彼氏だ。

「ヒヨリ、ちょっと待っててくれないか」
「え? うん、いいけど」

私の家の前に着くと、トモセくんは駆け足で自分の家へと戻っていった。
その背中を見送り、私はぼんやりと空を見上げる。
もう周囲はすっかり茜色。
綺麗だなぁと見ているとトモセくんが走って戻ってきた。

「ヒヨリ」

トモセくんは一本の薔薇を差し出した。
驚いて彼の顔を見ると、心なしか赤くなっている気がした。

「ちゃんとしたお祝いは後日改めてするけど。
今日、どうしてもこれだけは渡したかったんだ」
「ありがとう、トモセくん」

彼の手から薔薇を受け取ると、真っ赤な薔薇は綺麗で思わず見とれてしまう。

「これから先も記念日にはこうやってお前に薔薇を渡すから。
999本になるまでずっと傍にいてほしい」
「毎年一本だったら間に合わないね」

ふふ、と私が笑うとトモセくんも小さく笑う。

「でも、そうなるくらいずっと一緒にいたいのは私も一緒だよ。ありがとう、トモセくん」

そう言って微笑むと、トモセくんは私をそっと抱き寄せた。
家の前だとかそういう事はトモセくんの頭から消えてしまっているようだ。
だけど、私も彼の腕の中にもう少しだけいたいから、気づかないふりをした。

 

大事な幼馴染が、大事な彼氏になって、いつか大事な旦那様になるんだろうか。
そんな日が来ても、きっと私たちの大事な部分は変わらないんだろうな。

 

呼んで(キョウヒヨ)

「キョウヤさん、お待たせしました!」

学校が終わり、待ち合わせの場所に行くとキョウヤさんはもう来ていた。
息を切らして彼の元へ駆けていくとキョウヤさんはいつもの笑みを浮かべて私を迎えてくれた。

「おー、お疲れ。ヒヨリ」

キョウヤさんが座っているベンチに私もひとまず腰を下ろして息を整えると、キョウヤさんから強い視線を感じて、横を向いた。

「ど、どうかした?」
「いや、俺たちって付き合ってもう一年経つだろ?」
「は、はい。そうですね」

そう言われるとちょっと照れてしまう。
だって、それはまさしく今日なのだ。

「まださ、時々俺に敬語交じりで話すよな、ヒヨリ」
「うっ…それは、確かに」

キョウヤさんは一歳上だ。敬語をやめてほしいと言われてから何度も頑張ってはいるものの、咄嗟の時にはつい敬語が出てしまう事もしばしば。

「それはさ、キョウヤさんって呼び方があれなんじゃないかなーって思うんだよな」
「そうかなぁ」
「だから今日から俺の事、キョウヤって呼んでみて」
「え!? それは無理!!」

キョウヤさんと呼ぶのだって物凄く緊張したのだ。
今でこそ名前はさらっと呼べるようになったけど、呼び捨てだなんて。
でも、キョウヤさんは目を輝かせて私を見つめる。
その顔に弱い事を彼は知っているんじゃないだろうか。うっ、反則です。

「…キョ、キョウヤくん?」
「!!」

恥ずかしさを抑えながら、私は恐る恐る彼の名前を呼んだ。
するとキョウヤさんはまるで胸を銃で撃たれたみたいに胸を押さえた。

「やべえ、その破壊力」
「え??」
「それは可愛すぎるな、ヒヨリ」

少し顔を赤らめて、キョウヤさんはそう言って笑うと私の頭をくしゃくしゃに撫でた。

「よっし、行くか!」
「うん!」

なんだかよく分からないけど、キョウヤさんは元気いっぱいになり私の手を差し出した。
その手を握り返して、私たちは歩き出す。

いつか……いつかはキョウヤって呼べるようになれたら良いなって私も思ってるから。
だからそれまでどうか、待っていてほしいなと思いながら彼の隣で笑った。