恋人のキョリ(郁玲)

「玲ちゃんってさ、本当に分かりやすいよね」
「え?」
時計の針が五時を回った頃、隣の夏目くんが頬杖を突きながら私の方を見つめ、そんな事を言い出した。報告書をまとめる手を一旦止め、夏目くんの方を見る。
「今日、これから用事あるんでしょ?」
「うん。そうだよ」
「珍しく髪も綺麗に巻いてるし、そのスカートも新しいのが一目でわかる。つまりデートでしょ?」
「デ!?」
思わずとんでもない声が出る。慌てて否定しようと口を開くが、夏目くんはもう既に私の方を見ておらず、「まあ、楽しんでくれば?」とだけ言って仕事に戻ってしまう。
開いた口を閉じ、私もパソコンに向き直る。今日は定時で上がりたいのだ。なぜなら……夏目くんに言われた通り、今日はデートだから!
息を切らしながら駅へ向かう道を駆け抜ける。干定時を過ぎてしまったが、この調子でいけば待ち合わせの時間には十分間に合いそう。待ち合わせ場所である駅前に到着すると、ショーウインドウを鏡にして、髪をちょいちょいと直す。朝張り切って巻いた髪は夕方になると力を失い、解けてしまっているが、ゆるふわという事でイけるだろう。退社する前に直した化粧も再度確認する。
(やっぱりリップの色、もう少し落ち着いた色が良かったかな。新色可愛くて買っちゃったけど、ちょっと派手かも)
リップの色を気にして、うーんと悩んでいるとショーウインドウに映る私の背後にふっと人が映り込む。
「おい、そんなところで百面相をやるな」
「郁人さん…!」
郁人さんは無遠慮に私の頬をむにっと触り、不機嫌そうな顔をする。
「頬、冷たくなってるだろ。建物の中で待ってればいいのに、風邪引いたらどうするんだ、アンポンタン」
「ここの方が郁人さんが着た時、すぐ分かるかなーと思ったんで。それに私、丈夫なのが取り柄なんで大丈夫です!」
「ちっ、大人しくこれでも巻いて、エリマキトカゲにでもなってろ」
郁人さんは自分がしていたマフラーを外すと、私の首にかけ、ぐるぐるに巻いてくる。もこもこして温かいが若干苦しい。
「でも郁人さんが寒いんじゃ?」
「お前見てる方が寒い。さっさと行くぞ」
「…ありがとうございます」
郁人さんの優しさで胸がじんわりと温かくなる。先に歩き出した郁人さんを急ぎ足で追いかけ、彼の隣を歩きだした。

郁人さんとは付き合い出して、数か月が経つ。付き合うまでに紆余曲折あったものの、お付き合いは至って順調だ。今日は互いの仕事が落ち着いていたので、久しぶりに飲みに行く約束をしていた。
「ここの焼き鳥屋さん、つくねと軟骨がめちゃくちゃ美味しいんですよ! 是非郁人さんにも食べてほしくて」
メニューを見ながら力説すると郁人さんが小さく笑う。「久しぶりに飯行こうって言って、焼き鳥屋に連れてくるとは……さすがだな」
「それ、褒めてないですよね?」
「ああ、褒めてはいないな」
おしぼりで手を拭き終わった郁人さんは私の頬にもう一度触れる。郁人さんのマフラーと店内の温かさですっかり体温を取り戻したことに安堵したのか、郁人さんが小さく息を吐いたのが分かった。
(郁人さんって過保護なんだよなぁ)
多分それは私に対してだけじゃない。瀬尾研のみんなの事も大切にしている事は私もよく知っている。ふふ、と思わず笑うと郁人さんが私の顔を覗き込んでくる。
「何にやけてんだ」
「いえ、郁人さんって子供が出来たら確実に過保護なお父さんになりそうだなぁって」
「なっ…!」
「お待たせしました~! 生二つです!」
郁人さんが顔を赤らめたのとほぼ同時に注文していた生ビールが運ばれてきて、ドン! とテーブルに置かれる。
「郁人さん、食べたいもの決まりました?」
「……お前の好きにしていい」
「じゃあ、とりあえずオススメを注文しちゃいますね」
店員さんに注文をお願いすると、元気よく「かしこまりました~!」と言って去っていった。
「それじゃ、今週もお疲れ様でした!」
「お疲れ」
ジョッキを手に、乾杯するとすぐさま口をつける。ここのお店はきめの細かい泡を入れるのがとても上手で、いつもよりビールをとても美味しく感じる。
「はぁー、美味しい!」
「お前、ひげ出来てる」
「え!?」
慌てて拭こうとすると、それより先に郁人さんの手が伸びてきて、私の上唇らへんを親指で拭う。
「も、申し訳ないです…」
「俺がいないところでは気をつけろよ」
「いえ、郁人さんがいるところの方が気をつけなきゃいけないのでは?」
「は?」
「だって…デートですし」
好きな人に泡で出来たひげを見られる方が恥ずかしい気がする。ごにょごにょと言葉を続けると、郁人さんはピンと私のおでこを軽くはじく。
「あたっ」
「無防備すぎるんだ、おたんこなす」
郁人さんは言うだけ言って、ビールを煽るようにぐびぐびと飲み、一気に半分くらいまで飲んでしまう。ジョッキから唇を離すとほぼ同時に口元をぬぐってしまい、郁人さんのひげをぬぐおうと用意していた手は空振りしたので、代わりに枝豆に手を伸ばす。
「郁人さんの隙をつきたいです」
「百年早い」
それから、注文していた焼き鳥たちが運ばれてきて私たちは美味しく楽しくお腹いっぱいになるまで焼き鳥を食べ、お酒を飲むのだった。

トイレから戻り、そろそろお会計を頼もうとすると郁人さんが「もう済ませた」とさらりと言って、最後に出てきた温かいほうじ茶をすする。
「郁人さん、スマートすぎません?」
「どっかの誰かが抜けすぎてるんだろ」
私もほうじ茶をすすりながら、郁人さんをちらりと見る。ふと視線をテーブルに落とすと見慣れない紙切れが数枚置いてあった。
「これはなんですか?」
「お前にやる。このエリアでやってる福引の券だそうだ」
「へぇ~! それじゃこの後引きにいってみましょうよ」
「馬鹿か、時間を見ろ。もう十時を過ぎてるんだ。とっくに終わってるだろ」
「あ、本当だ」
福引券には朝十時から夜八時までと書かれていた。
「せっかくもらったのに……残念ですね。ほら、一等は温泉旅行ですって。あ、二等は液晶薄型テレビ! 気合入ってますね~!」
「ふん、よくあるラインナップだろ。それにお前の引きなら、参加賞のティッシュが関の山だ」
「そんなに引き悪くないですよ、多分! 何かしらの賞は引き当てる自信があります!」
「へぇ。お前はもう俺のようなハイスペックな男を捕まえた事で運を使い果たしたと思うけどな」
自分で言っちゃうんだ、ハイスペックって! でも確かにその通りなのだ。先ほどの通り、このスマートさ。何事もそつなくこなす器用さ。自分でハイスペックと言い切ってしまえる自信に溢れる姿に納得しかない。
だけど、ここで言い負かされてなるものか。私は少し胸を張りながら、ふふんと郁人さんを見つめる。
「郁人さんも運を使い果たしちゃったんじゃないんですか? 私っていう最良物件を捕まえちゃったんだから」
郁人さんの真似をして言い返してみるが、これはなかなか恥ずかしい。そして郁人さんは何も言わずにお茶をずずっとすする。ああ、周囲は楽しそうに焼き鳥を食べて談笑しているのに、なんで私たちの間には沈黙が流れるのか。
「そうかもな」
長い長い沈黙の後、郁人さんがそれだけ呟く。顔は仄かに赤くなっている。
「…郁人さん、もしかして酔ってます?」
「お前じゃないんだ。酔うほど飲むか」
それはつまり――意味を考えたら、途端に酔いが回ったみたいに顔が熱くなる。それを誤魔化すように残っていたお茶をぐいっと飲み干した。
「そろそろ帰るぞ」
「は、はい!」
立ち上がった郁人さんを追いかけて私も席を立つ。外に出ると冷たい風がぴゅーっと吹く。コートの前を手で合わせ、首元を押さえるがそんな事お構いなしに入ってくる隙間風にぶるりと身体を震わせる。
「玲」
名前を呼ばれ、顔をあげると再びマフラーを巻かれる。さっきより幾分丁寧に巻かれたのは気のせいではないだろう。マフラーを巻き終わると郁人さんは私の手を取り、駅に向かって歩き出す。
「郁人さん、大好きです」
「……っ」
繋いだ手をそっと握り返して、胸いっぱいに広がった気持ちを伝える。郁人さんが大好きだ。付き合い始めて、何度そう思ったか数えきれないくらい好きなのだ。
「往来でそんな事よく言えるな、あんぽんたん」
「でも、周りに人いないですし。誰も聞いてませんよ」
「聞いてなくても見てる奴がいるかもしれないだろ。そんな緩みきった顔、俺以外に見せるな」
「ふふ、気を付けます」
冷たい風は郁人さんのマフラーと郁人さん自身のおかげでへっちゃらに感じた。
焼き鳥もビールも美味しくて、それを一緒に楽しんでくる大好きな恋人が隣にいる。私は今、世界で一番幸せかもしれないなとこっそりと微笑んだ。

郁人さんとデートした翌日。私は仕事帰りに福引券を握りしめ、福引会場までやってきた。
(本当は郁人さんと一緒に来たかったんだけど、福引するためにわざわざ呼ぶのも申し訳ないし……仕方ない。私の力でポケットティッシュ以外のものを!)
握りこぶしを作り気合を入れてから、福引の列に並ぶ。ガラガラと福引器が音を鳴らしている。その後に「あー」とか「残念!」とかよろしくない言葉が続く。貼りだされたポスターによるとまだ一等も二等も出ていないようだ。テレビ、もう少し大きいの欲しいなって思ってたから二等でも当たったら嬉しいな、などと空想しているうちに私の番が回ってくる。
「これお願いします」
「はい! それじゃあ、ゆっくり三回回してくださいね」
ハンドルをぎゅっと握り、私はゆっくりと回していく。ガラガラと音を立てながら一回転すると出口からぽんと白い玉が一つ出てくる。
(あ、外れ…)
次も白い玉。これは郁人さんの言う通り参加賞しか持って帰れないかもしれない。そう肩を落としながら回した最後の一回。
「え?」
ころんと出てきたのは――


「瀬尾さん、さっき渡した書類どこに置きました?」
「ああ、郁人くん。あれはここに……おや、ないね」
「あれは今日チェックが必要なものだからすぐ目を通すようにお願いしたと思うんですけど、その書類ごと記憶の彼方にやりましたか」
「チェックは終わったんだ。それで郁人くんに渡そうと思って持っていたはずなんだけど」
「瀬尾さん~! 流し台にありましたよ。はい、これ」
「ああ、ひかるくん。ありがとう」
「いいえー」
「はい、その場でもう一度確認して俺に渡してください」「うん、ありがとう。郁人くん」
瀬尾さんのおとぼけにため息をつきながら両腕を組んだところで、ポケットに入れていたスマホが振動した。取り出してみると、そこに表示されていた名前は【泉玲】だった。
「ちょっと出てくる。ひかる、瀬尾さんがその書類なくさないようにきちんと見ておけ」
「はーい、いってらっしゃーい」
ひらひらと手を振るひかるに見送られながら、俺は研究室を出る。軽く咳払いをした後、通話ボタンを押して耳に押し当てる。
「どうした、何かあった――」
『いいいい郁人さん! 運! 運に見放されてなかったです!』
「は?」
ざわざわとした音の中、玲が落ち着きのない様子で支離滅裂な言葉を吐く。危険な場所にいるのかと一瞬思ったが、ただの人混みのようだし、心配はないだろう。出来る限り落ち着いた声で玲に話しかける。
「落ち着け、玲。何があったんだ?」
『福引の一等が当たりました!』
「……は?」
『昨日もらった福引を引きに来たんです! そしたらなんと一等の温泉旅行が当たっちゃいましたよ! やりました!』
「あー、あれか」
そういえば昨日焼き鳥屋でなぜか福引券をもらった事を思い出した。そういえば何かしらの賞は引き当てる自信があるとか言ってた気がする。
『寒い季節だし、温泉ちょうど良いですね! 早速今度の週末とかどうですか?』
「ちょっと待て」
『え?』
こいつは何を言ってるか自覚していないんだろうか。
「どうして俺が行く事確定してるんだ?」
『郁人さんと一緒に行った焼き鳥屋さんでもらった福引ですし。それに郁人さんと一緒に温泉行くの楽しそうだなぁって。あ、もしかして温泉苦手でした?』
楽しそうな声でしゃべっていたかと思えば、はっとした様子で恐る恐る俺に尋ねてくる玲。顔を見なくとも百面相をしている事が想像ついて、思わず表情が緩む。
温泉っていったら……おそらく泊まりだろう。それを問題ない様子で誘ってくる玲に内心動揺を隠せない。
付き合い始めて数か月経ったが、俺たちの仲は未だにそういう仲にはなっていないのだ。
「俺に苦手なものがあるか」
『良かった! あ、すみません。仕事中に。嬉しくてついつい電話しちゃいました』
「ちょうど手の空いたところだったから良い。気を付けて帰れよ」
『もうすぐ仕事終わりそうですか?』
「ああ、もう少しかかるだろうけどな」
『もし良かったら晩御飯食べに来ませんか? 今からならちょうど良い時間になりそうですし』
「……そうだな。たまにはお前の手料理も悪くない。終わったら連絡する」
『はい! 分かりました!』
それから二、三言葉を交わして通話を終了させる。手ぶらで研究室に戻るのも不自然だろう。自販機でホットココアを買って、一口飲む。
(ぬる……あったか~いと書いておきながら看板に偽りありすぎだろ、これ)
小さく舌打ちをしながら、ココアをもう一口。
(なんであいつは無防備なんだ?)
改めてその問題にたどり着く。温泉旅行に誘って来たり、夕食を食べに家に来ないかと言ってみたり。付き合っているから当然と言えば当然なんだが、調子が狂う。
ココアを飲み干し、ゴミ箱に捨てて研究室へと戻る。
「郁人さん、おかえりなさい。これ、瀬尾さんから受け取った書類です」
「ああ」
「電話長かったんですね。それじゃ、僕は帰りまーす」
「電話? あ、」
そうだ、電話がかかってきて研究室から出たんだから手ぶらで帰ってきたっておかしくない。そもそも買ったココアをその場で飲み干しては買った意味もなかった。
(何をやってんだ、俺は)
心の中でため息をつきながら、俺は席に戻ると残っていた仕事に取り掛かるのだった。


「よし、これでばっちり!」
テーブルの上に料理を並び終え、私は満足げにそれを見下ろす。我ながら上出来だと思う。この季節は温かいものを食べたくなるから、今日は生姜をたっぷり効かせた鶏団子スープをメインにして、ホウレンソウの胡麻和えとさわらの西京漬けを焼いた。
インターホンが鳴り、液晶には郁人さんが映し出される。
「お帰りなさい、郁人さん。どうぞー」
「は!?」
何やら慌てた様子の郁人さんに小首をかしげる。何に慌てたのかは後で聞いてみよう。ぱたぱたと玄関まで移動し、エレベーターが到着するであろう頃合いを見計らって家のドアを開ける。しばらくすると廊下の角を曲がって、郁人さんがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「郁人さん!」
「お前はエスパー気取りか。寒いんだから開けて待つな」
少し歩調を早め、郁人さんが私の元へやってくる。私を押し込むように玄関へ入ると突然後ろから抱きしめられる。
「郁人さん?」
「やっぱり冷たくなってるじゃないか」
「えー、外から来た郁人さんの方が冷たいですよ。ほら、やっぱり」
郁人さんの手に触れるとすっかり冷えていた。温めるように手を重ねると郁人さんが手を引っ込めてしまう。「お前の熱がなくなるだろ」
「私はすぐ温かくなるから大丈夫ですよ」
「俺もすぐ温かくなるから大丈夫なんだよ」
郁人さんは靴を脱ぎ、部屋の中へと移動する。部屋の中の暖気に触れるとほっと表情が緩んだのを盗み見た私はこっそりと笑う。
「出来たばっかりなんで温かいですよ! 手洗って食べましょ」
「俺は子供か」
そう言いながらも上着を脱いだ後、洗面台で手をしっかりと洗って戻ってきた郁人さんは大変良い子だと思う。 向かい合って座り、いただきますと食べ始める。
「郁人さん。これ、自信作です。寒い季節にぴったり!」
「ああ、確かに美味いな」
鶏団子スープを飲みながら郁人さんが頷く。それが嬉しくて、私もスープを飲もうと手を伸ばす。
「んんっ、けほっ」
「慌てすぎて喉に詰まったか」
「いえ、そこまで慌てては…」
喉に何かがつかえたような嫌な感じがした。少し気にしながらもスープを飲むと生姜をたっぷり効かせたスープが喉を通り、身体の中からぽかぽかと温めてくれた。
「うん、美味しいですね」
「これなら毎日食べてやってもいいかもな」
「毎日だったらきっと飽きちゃいますよ」
でも、お世辞でも嬉しくてつい頬が緩む。郁人さんはそんな私に気づかずにスープを黙々と食べながら、最後の一口を飲み干す。
「お前が作るものだったら飽きるわけないだろ」
「…! そういうのは反則です…!」
郁人さんは時折とんでもないストレートな言葉を投げつけてくる。しかも剛速球。熱くなった顔を冷ますべくパタパタと手で仰ぐが一向に収まらない。
「郁人さん、おかわり食べますか?」
「ああ、もらう」
「今用意しますね」
器を受け取って、台所に移動して、私は思わず息を吐き出す。
(なんて心臓に悪い…!)
鼓動が早鐘のようだ。スープを温めてる間、胸を抑える。でも、毎日こんな風に郁人さんと過ごせるようになったらとびきり幸せかもしれない。そう思いながら、スープをよそって、郁人さんの元へ戻った。

夕食の後、お茶を飲みながらくつろいでいたが二十二時になる頃、郁人さんが立ち上がった。
「そろそろ帰る」
「え、帰っちゃうんですか?」
着たばかりの郁人さんのコートの裾を思わず掴むと郁人さんが驚いたように目を丸くして、その手を見た。
「帰って読まなきゃならない論文があるんだ。これが今生の別れでもないんだ、そんな顔するな」
「子供みたいでしたね、すいません」
ぱっと手を離し、作り笑いを浮かべる。郁人さんは難しい顔をしながら、私の腰に手を回し、ぐっと強く引き寄せた。
「郁人さ――」
押し付けられた唇は熱くて、ドキドキした。
「今日はこれで我慢しろ。また連絡する」
「…はい」
初めてでもないキス一つで舞い上がるなんてちょっと照れてしまう。玄関まで郁人さんを見送るために一緒に移動する。革靴を履いた郁人さんは私の方を振り返り、頭をぽんと撫でると「おやすみ、玲」と酷く優しい声でそう言った。
「おやすみなさい、郁人さん。気を付けて」
「ああ、じゃあな」
パタンと玄関のドアが閉じ、郁人さんの足音が離れていった後、私は玄関の鍵を締めた。
(今日は泊まる……とか言ってくれるかなって思ったけど、やっぱり無理だよね)
付き合い始めて数か月。キスは両手で足りないくらいしているけれど、それ以上の関係にはなっていない。
まだ朝まで一緒にいた事がないのだ。
「おやすみって言って、おはようって言える日はいつ来るかなぁ」
そっと唇を指でなぞる。
まだ郁人さんのぬくもりが残っている気がして、少しだけ恥ずかしくなった。

「んんんっ」
郁人さんが我が家で夕食を食べた日から数日。
あの日覚えた喉の違和感は日を追うごとに増していった。咳払いをするが、喉は一向に楽にならず、まだ午前中だというのに、今日何個目かになるのど飴を口の中に放り込んだ。
「玲ちゃん、風邪?」
「んー、そうかも? 最近一気に冷え込んだからだとは思うんだけど」
「玲ちゃんでも風邪とかひくんだ」
「それはどういう意味? でも体が頑丈なのが取り柄なんだけどなぁ」
「それなら泉、これを飲むといい」
「孝太郎さんはしれっと会話に混ざってきますね」
「由井さん、それは?」
由井さんが手に持っている謎の小瓶を指さすと、由井さんは得意げな様子で説明を始めた。
「泉が咳払いをした回数が十回を超えたところで泉に合うように栄養ドリンクを配合したんだ。これを飲めばたちまち良くなるはずだ」
「それはそれで怪しい……えーと、お気持ちだけ頂いておきます」
「やばそうな気配漂ってるしね」
夏目くんがくすっと笑う。それから私のデスクにある書類の束をいくつか奪って、ぱらぱらと確認する。
「玲ちゃんが元気になったらおごってもらうって事で。これは俺が引き受けるよ」
「じゃあ、こっちは俺が」
今度は今大路さんが私のデスクから書類の束をいくつか手に取る。
「仕方ないな、これは俺がやる」
そして青山さんも私のデスクから残りの書類を持っていく。私は慌てて、立ち上がって、呼び止めようとするが関さんが小さく笑う声が聞こえたので、思わずそちらを見た。
「泉、急ぎの案件があるわけじゃないし、今日はもう帰ってゆっくり休んだらどうだ?」
「でも……」
みんなそれぞれ仕事があるのに、私だけ甘えるなんて許されるはずがない。困った顔で関さんを見つめ返すと、関さんはそっと微笑んだ。
「泉はいつも頑張っているんだ。体調が優れない時くらいゆっくり休んだっていいだろう?」
ここで強情になってもかえって迷惑をかけるだけだ。私はみんなに向かって勢いよく頭を下げる。
「関さん……みなさん、ありがとうございます。治ったら必ず倍にしてお返しします」
「玲ちゃんのおごり、楽しみだなー。何にしようかな」
「夏目くん、あんまり高いものは駄目だよ!?」
そんな私たちのやりとりを聞いて、マトリの面々はどっと笑うのだった。

先輩たちの優しさに甘えて、私は早退させてもらい、よろよろとしながら家へ帰った。部屋に着くと、身体からどっと力が抜けた。パジャマに着替えて、すぐさまベッドに潜り込んで目を閉じる。
(あー、これは本当にやばいかも……)
熱いのに寒い。そして関節が痛い。これは熱が出る前兆だ、とぼんやりと頭に浮かぶ。薬は効かないから、汗をいっぱいかいて熱を下げるしかない。布団をしっかり被り、自分を抱きしめるように身体を丸める。ちょうどその時、枕の脇に置いたスマホが振動した気がしたが、手を伸ばす前に力尽きてしまい、そのまま眠りに落ちた。


おかしい。
スマホを開いて、トーク履歴を表示するが、未だに既読がつかない。いつも昼休みになると、玲の方から他愛のない事を送ってくるのに、今日はいつもの時間になっても連絡が来ず、我慢できなくなって自分からメッセージを送ってみたものの、それに既読がつかない。
(急ぎの案件が入ったとかか?)
でも今日の午後は瀬尾さんのところに資料を届けに
研究室へ来ると聞いていた。それのキャンセルの連絡もないのだから急ぎの案件が入ったという事はないだろう。
「郁人さん、コーヒー飲みます?」
「いらん」
「砂糖とミルク、増し増しにしておきますねー」
(会話が進んでる…!)
「潔くん、何か言いたそうな顔してる。潔くんも飲む?」
「あっ、手伝います…!」
「ありがとうー! じゃあ、郁人さんのコーヒーにミルクと砂糖たっぷり入れてくれるかな?」
「郁人さん、どうしたんでしょう」
「スマホを気にしてるようだから、誰かの連絡待ちかな」
「なるほど…」
ひかると潔が何やらひそひそと話してるようだ。余計なおせっかいを……と思わず舌打ちしそうになる。
「お前ら、コーヒー淹れるの済んだら、とっとと資料整理の続きやるぞ」
「はーい」
「分かりました! 郁人さん、これをどうぞ」
「ああ、悪い」
潔は急いだ様子で俺に近づき、コーヒーの入ったマグカップを手渡す。カップの中を覗くとミルクと砂糖がふんだんに入っている事が分かる色をしていた。
(たかが既読にならないくらいで焦る方が馬鹿だ)
甘いコーヒーを飲みながら、少し冷静になってきた。そう考えてる間もスマホが振動するのではないかと机の上に置いたスマホをちらりと見てしまうのは仕方がない事だ。ひとまずコーヒーを飲み干してしまおう。きっとこれを飲み終わる頃、玲が研究室にやってくるはずだ。
出来る限りのんびり味わうようにコーヒーを飲み干す。すると、まるで見ていたかのようなタイミングで研究室がコンコンコンコンとノックされた。
「はーい!」
ひかりがドアを開けると、そこにいたのは玲ではなかった。にっこりとうさんくさい爽やかな笑みを浮かべたまま、彼は口を開いた。
「こんにちは。瀬尾さんとお約束をしていた泉の代理で参りました今大路です」
「玲さんの代理? 今日は玲さん、来られないんですか?」
ひかるが俺の聞きたい事をさらりと口にする。
「ええ。実は体調を崩してしまって、早退させたんです。急な事だったので、こちらに連絡を入れる事も出来なかったので、代わりに書類を届けることにしたんです」
「…!」
体調を崩して早退だと? 日頃から体が丈夫なのが取り柄だと胸を張っていたが、やっぱりここ数日の急激な気温低下に体がついていかなかったのか。体調を崩したから、メッセージが既読にならなかったのかと状況は把握できたが、玲がどうしているのか分からない。
「そうなんですね、玲さん心配ですね。瀬尾さんは奥の部屋にいるので、どうぞ」
「ありがとうございます」
いつもなら自分が率先して案内をするのに、今日は体が動かなかった。パタンとドアの閉まる音がすると、潔が心配げにこちらを見ている事にようやく気付いた。
「あの、郁人さん……大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だ。どこをどう見たら大丈夫じゃなく見えるんだ」
平静を装うように空になったマグカップにコーヒーを注いで一口飲む。すると潔はためらいながらも口を開いた。
「その…今のはブラックですよね? 郁人さん、甘くして飲むのが好きなのにブラックを飲むなんて大丈夫じゃないと思います」
「!」
俺としたことがうっかりしていた。潔に指摘されて、ようやく口の中に広がる苦味に気づいた。思わず舌打ちをしてしまう。今日はもう講義はない。瀬尾さんも部屋での作業だけだから潔たちに任せても問題はないだろう。
「潔、急用が出来たから俺は帰る。何かあったらすぐ連絡しろ」
「…! わかりました! お大事にと伝えてください」
潔がほっとした表情を浮かべるのを見て、こいつらにまで筒抜けとは我ながら玲の事になると周りが見えないんだなとなんとも言えない気分になる。白衣を脱ぎ、パソコンの電源を落とすと俺は速足で研究室を後にするのだった。

車を走らせ、近くの薬局で色々と買い込んだ後に玲のマンションへとやってきた。近くのコインパーキングに車を停め、いつもならインターホンを鳴らすが、寝ているかもしれないのでもらっていた合鍵で開錠する。
玄関のドアを音を立てないようそっと開けると、乱暴に脱ぎ捨てられた靴を見つける。いつもなら揃えてあるのが常だ。揃える余裕もなかったんだと思うと不安は増した。革靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れる。薄暗い部屋の中、リビングを通り抜け、寝室に入るとベッドの中で小さな子供のように丸まって眠っている玲を見つけた。
「玲」
小さく名前を呼び、そっと額に触れる。発熱しているようで随分熱い。買ってきた冷却ジェルシートを額に貼ってやり、枕元にあった体温計を取り出し、脇に挟める。しばらく待つとピピ、と電子音が響いたので体温計を確認すると『三十八度五分』と表示されていた。
「ちっ、高いな……」
ひとまず上着を脱いで、すぐさま看病道具を揃える。濡らしたタオルで汗をぬぐってやり、しっかりと毛布をかぶせる。熱を下げるためにも、出来るだけ発汗した方が良いだろう。その後は一度部屋を換気してから室内を加湿する。ないと思って、加湿器を買ってきて正解だったなと思いながらテキパキと行動していくとやる事はあっという間に尽きてしまった。
「…辛そうだな」
再び汗をぬぐってやり、眠る玲を見つめる。そういえば初めて寝室に入ったなと気づいた途端、自分でも分かるくらい顔が熱くなった。
(こんな時に何考えてんだ、馬鹿か!)
自分で自分を罵倒しながらも、きょろきょろと寝室を眺めてしまう。リビングと同じでピンクを基調とした部屋だ。ここでいつも寝起きしてるのかと思うとそわそわと落ち着きのない気持ちになる。まるで男子中学生のようだと自分を笑ってやりたくなる。
「お前は無防備すぎるんだよ」
例え具合が悪くて忘れてしまったんだとしても施錠以外にロックもかけないと鍵を持ってる他人が入ってきてしまうだろう。現に俺がこうして部屋の中にいて、玲の寝顔を見ているんだ。あと、気軽に部屋に誘いすぎだ。付き合ってるからといって何があるか分からないのに、もっと一緒にいたいと言うのは反則だ。温泉旅行だって気軽に誘うな。どうなってもいいと言ってるのと一緒だろう。俺が余裕のある大人の男に見えてるなら大間違いだ。
「お前はどれだけ俺がお前を好きなのか、知らないんだよ。このアンポンタン」
元気になったらあれを言おうこれを言おうと考えながら、いつまでも玲の寝顔を見つめていた。


ひやりと額に冷たいものがあたった感触で目を覚ました。重い瞼をゆっくりと開けると、目の前にはここにいるはずのない人がいた。
「いく…とさん?」
「起きたか」
「あれ、どうして……」
熱でよく回らない頭で考えるが、答えは浮かばない。郁人さんは小さく微笑むと私の頬にそっと触れる。
「まだ熱い。大人しく寝ておけ。腹が空いたんならおかゆも作ってあるが、食べれそうか?」
「……もう少し眠ります。もしかして、看病しに来てくれたんですか?」
ようやく浮かんだ言葉を口にすると郁人さんの頬が赤く色づいた気がした。それから郁人さんは私の手のひらをぎゅっと握った。
「恋人が体調を崩したって聞けば誰だってそうする」
「郁人さんは誰にでも優しいから」
「は? 俺が誰にでも優しいだと?」
私の言葉が嫌だったのか、郁人さんは眉間に皺を寄せる。誰にでも優しいという言葉は語弊があるかもしれない。でも、郁人さんは自分の懐にいる人間には限りなく優しいと思う。そう言いたかったがうまく言葉が出てこない。すると郁人さんは堰を切ったようにしゃべりだした。
「俺が優しいからわざわざお前の看病に来たと思ってるんなら、お前の脳内は花畑どころじゃないな。誰がわざわざ優しいという理由だけで仕事早退してまで看病に来るんだ。お前の事が好きだからに決まってるだろう。そんな事も分からないんならとっとと寝ろ。完治してから足りない頭でよーく考えろ」
すこぶる不機嫌そうな声で郁人さんは言い切るとフンと私から視線を逸らした。その姿を見て、私はくすりと笑ってしまう。
「郁人さんって、私が思ってるよりも私の事好きでいてくれてるんですね」
「いいから寝ろ。余計な事考えると熱が上がるぞ」
かかっている布団をかけなおすと郁人さんは私の手を離した。手の中から郁人さんの熱が消え、急激に心細くなった私は慌てて郁人さんの手を掴んだ。
「郁人さん」
「なんだ」
「あの……私が目を覚ますまで、帰らないでいてくれますか?」
「当たり前の事を聞くな。とっとと寝ろ」
その言葉に心の底から安堵する。ああ、思っていたよりも心細かったんだなって今更ながら気が付いた。
繋ぎなおした手に安心しきった私はようやく目を閉じる。
「郁人さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
私が思ってたよりも郁人さんは私の事が好きで、そして私自身も自分が思っていたよりも郁人さんの事が好きなようだ。
そんな事を思いながら目を閉じると、あっという間に眠りに落ちていった。

高熱を出した日から一週間が経った。今ではもうすっかり良くなり、いつもの調子を取り戻していた。
「やっぱり玲さんがいると場が明るくなりますね」
「玲ちゃん、無駄に威勢が良いから」
「威勢が良いって誉め言葉じゃないと思うんだけど? でもその節は大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」
久しぶりにランチをみんなで食べに来ている。いつもの焼き魚定食を注文した後、改めて頭を下げた。
「泉が元気になって良かったよ」
「関さん、ありがとうございます」
優しい上司や同僚に恵まれて、本当に幸せだ。それを噛みしめながらお冷を飲んでいると今大路さんが「あ」と何かを思い出したように口を開く。
「そういえば玲さんの代わりで瀬尾さんの研究室に行ったとき、帰る頃には早乙女さんがいなくなっていたんですよね」
「へ、へぇ~!」
「よほど大事な用事が出来たんでしょうね、きっと」
今大路さんは私の心を見透かしているんだろうか。乾いた笑みを浮かべながら、私はなんとかやり過ごす。
「お待たせしました~! 焼き魚定食のお客様~」
「ありがとうございます、待ってました!」
焼き魚定食を運んできてくれた店員さんが救世主に見える。元気良く手をあげると、「玲ちゃんは分かりやすすぎるなぁ」という夏目くんの声が聞こえたけど、聞こえないふりをした。

ランチが終わって、お店を出るとビューと冷たい風が吹く。私は首元に巻いたピンク色のマフラーをぎゅっと抑えながら歩き出す。ピンク地に白とグレー、薄紫色のチェック柄が施されたマフラーは風邪が治った私に郁人さんがプレゼントしてくれたものだ。
『お前は無防備すぎるんだ。首元だってガバガバだ。そんなに油断してると喉元狙われるぞ』
そう言って渡された時は一体どんな防具を…!?とドキドキしたが、開けてみると可愛らしいマフラーだった事に驚いた。
郁人さんが優しいのは、私の事が好きだからなんだ。
マフラーを巻く度にそれを思い出して、つい頬が緩む。私も郁人さんに好きだと言う気持ちをもっと伝えていきたい。そう思った。
(明日、楽しみだなぁ)
そして明日は約束していた温泉旅行の日だ。
風邪を引いて、キャンセルしないように私はしっかりとマフラーを巻きなおし、歩き出した。


「温泉旅行って……」
普通、温泉旅行と聞けば最低でも一泊で温泉のある宿に宿泊すると思うだろう。よくよく聞けば、福引で当たった温泉旅行は日帰りで近隣の温泉にご招待!(昼食つき)というものだった。泊まりになると思い、内心そわそわしていた俺が馬鹿みたいだ。
「郁人さん、見てください! 立派ですね!」
「はしゃぐな、転ぶぞ」
赤い橋を渡り、たどり着いた建物はレトロな雰囲気もありながら立派な館だった。
受付で招待券を渡すと、部屋に案内される。部屋で施設の簡単な説明を受け、浴衣を手渡された。
「十二時には昼食をお運びしますので、それまでに戻ってきて頂きますようお願い致します。お部屋は十四時までご利用できますので、ごゆっくりお寛ぎくださいませ」
「ありがとうございます!」
部屋に二人きりになると、玲は落ち着きのない様子で部屋の様子を見回す。
「凄いですね。もっと狭い部屋かと思いきや、二人で使うのもったいないくらい大きいお部屋ですね」
「そうだな。さっさと温泉につかりにいくか」
「そうですね! 行きましょう! これ、郁人さんの分の浴衣です」
「風呂上り、湯冷めしないよう気をつけろよ」
「大丈夫ですよ! もうピンピンしてますから」
つい一週間前に高熱を出して寝込んでたのが嘘みたいに元気だが、病み上がりなのだ。わざわざ今日温泉に来なくても良かったのではと考えてしまう。
「さ、行きましょ!」
玲に手を取られ、部屋を出る。女湯の入り口の前で玲と別れ、一人で男湯に向かう。俺たちのように昼間の温泉に来ている人も多少いるようで、脱衣所には何人か人がいた。服を脱ぎ、早速温泉に向かうと想像していたよりも広い景色が目の前に広がり、圧倒される。
(きっと女湯で、一人で感動してるんだろうな)
隣にいない想い人を想像しながら、体を洗って、早速湯につかる。ちょうど良い温度で、ほっと息を吐きだした。(温泉は悪くないが、玲と一緒にいられないのがつまらないな)
男女別なんだから仕方がないとはいえ、せっかく二人で過ごせる時間を別々に湯に浸かるのは淋しいものだと感じた。
(いつか……温泉に一泊する時は一緒に入れるところ探すか)
そんな未来がいつ来るか分からないが、想像して思わず笑みが零れる。多分、今の俺は生きてきた中で一番幸せだろう。
温泉を満喫し、約束した時間より少し前に入り口で待っていると玲が現れた。
「郁人さん、お待たせしました」
「随分早いな、ちゃんと温まったのか?」
「子供じゃないんですから、ちゃーんと肩まで浸かりましたよ、ばっちり!」
「そういうところが子供なんだよ、お前は」
ピンと額を軽くはじくと「あたっ」と玲が額を抑える。「でも、郁人さんの浴衣姿、新鮮ですね」
「お前も悪くないんじゃないか」
そう言いながら玲をまじまじと見つめると、浴衣からのぞく鎖骨が妙に艶めかしく見えて、思わず羽織をぐいっと中央に集める。
「わっ、どうしたんですか?」
「首元に気をつけろって言っただろ、アンポンタン」
「外じゃないから大丈夫ですよ。ほら、温かいし」
「そういう問題じゃない」
「?」
俺の言いたい事が分からないらしく、小首をかしげる玲を見て、思わずため息をついた。
胸元はしっかりガードさせながら、館内をのんびり歩く。売店には温泉宿定番の温泉まんじゅうが最前列で並べられていた。
「マトリの皆に買っていこうかな。郁人さんも瀬尾研のみんなに買っていきます?」
「ああ、そうだな」
土産も買い終わり、十二時前に部屋に戻る。そして十二時きっかりに料理が運ばれてきた。昼とは思えない豪華な料理に玲が目を輝かせていて、その姿が可愛いなと思った。
「凄い美味しそう! お酒が飲めないのが残念ですね!」
「飲めばいいだろう。追加料金を払えば済む話だろ」
「車で来たから二人とも飲むのは難しいじゃないですか。ここは我慢して、別の機会に美味しくお酒も頂きましょう!」
「別の機会…か」
刺身を口に運ぶ。弾力のある肉厚な鯛は確かに酒が飲みたくなる逸品だ。
「今度泊まりに来るか?」
「へ?」
「だから、泊まりに来れば酒も飲めるだろう」
「そっか、そうですね」
俺の言い訳じみた言葉に、玲は納得したような表情を浮かべる。
「良いですね、今度は泊りがけで来ましょうね」
「お前は本当に……」
「え? なんですか?」
「聞き間違えだ」
「いや、郁人さんしゃべってましたよ!」
「聞き間違えだ! ほら、小鍋も食べれそうだぞ」
「あ、本当だ!」
玲の意識を逸らす事に成功した俺はほっと小さく安堵のため息をもらす。
(簡単に泊りがけで来ましょうって言うあたり、警戒心がないにも程があるが……俺の隣で安心しきってくれるのも悪くはないな)
風邪で弱っていた時、傍にいてほしいと不安げな表情で俺を見つめた玲。俺が傍にいると言った時、心の底から安心したような表情に思わずときめいたのは内緒だ。
「郁人さん! このお鍋に入ってる肉団子、すっごい美味しいですよ! 早く食べましょう!」
「分かった、急かすな」
玲と過ごす時間はいつも胸が温かいもので満ちている。こいつも同じように感じてくれていればいい。

食事が終わり、温かいお茶を飲んで一息ついていると急に玲がそわそわしだした。
「忘れ物でもしてきたか」
「いえ、忘れ物はないです! 郁人さん、良いですか」
「何がだ」
鞄から綺麗に包装された包みを取り出すと、俺に向かって差し出した。
「看病してもらった上にマフラーまで頂いたので、私も郁人さんに何かお返しがしたいなって思って」
「俺が見返りを求めてやったと思ってんのか」
「いえ。違うのは分かってます。郁人さんが私に何かしたいと思ってくれたのと同じように、私も郁人さんに何かをしたいなって思ったんです」
「玲……ありがとな。開けてもいいか?」
「はい!」
玲から包みを受け取り、丁寧に包装紙をはがす。細長い箱に入っていたのはネクタイだった。ピンク色だが、落ち着いたトーンのピンクに白と赤のドットがプリントされている。
「郁人さん、いつも青系のネクタイしてるのでたまには可愛いのもありかなって思ったんですけど、どうですか?」
(絶対自分で買うなら選ばない色だな)
無自覚に自分色に染めようとしてるのだろうか。そう思ったら口元がにやけそうだ。
「ちょっと待ってろ」
ぴしゃりとふすまを閉め、浴衣から私服に着替える。
シャツの襟を正し、閉じていたふすまを開けて、玲の元へ戻る。
「俺に似合うかつけてみろ」
「え? 私がですか?」
「それくらい出来るだろ」
「うっ、頑張ります」
玲は慣れない手つきでネクタイを首にかけ、結ぼうとする。作った輪っかにネクタイを通すが、バランスがちぐはぐだ。
「あれ? なんだか変ですね」
「なんだかじゃなくて、凄く変だ」
「だって人のネクタイなんて結ぶ機会ないですし!」
「これから増えるだろう。覚えておけ」
「それって……?」
玲の顔が途端に赤くなる。何を想像したかは聞かなくても分かる。多分、俺と一緒だ。
「逃げられると思うなよ」
「それは脅しでは?」
すぐ近くにいる玲の腰をそっと抱き寄せ、体を密着させる。まだ浴衣のままだったので、感触がダイレクトに伝わり、心臓が跳ねる。
「今度ここに来る時は覚悟しておけよ」
「それは――」
何か言葉を紡ごうとした玲の唇をキスで塞ぐ。
久しぶりのキスは、俺の理性を吹き飛ばしかねない威力があった。
「郁人さん、大好きです」
「あんまり俺を試すな、馬鹿」
幸せそうに俺の胸元に頬を寄せる玲を見て、玲を抱く腕に少しだけ力を込めた。

エピローグ

前回は風邪でダウンしていたため、来れなかったので久しぶりの研究室だ。軽い足取りで、通い慣れた研究室に着き、ノックをするとひかるくんが私を迎えてくれた。
「玲さん、こんにちは! 体調もう大丈夫そうで良かったー!」
「心配してくれてありがとう、ひかるくん。おかげ様で元気になりました!」
「良かったです、玲さんの元気そうな顔が見れて」
「潔くんもありがとね、郁人さんから聞いたよ」
「あ、あの時は俺も動転していて!」
「ふふ」
いつもの椅子に座ると、郁人さんの席が空いている事に気づいた。私の視線に気づいたのか、ひかるくんが「郁人さん、今他の教授から呼び出されてるけど、多分もうすぐ戻ってくるんじゃないかな」
「そっか、ありがとう」
熱いコーヒーを飲みながら、郁人さんが帰ってくるのを待つ。今日は仕事ではなく、郁人さんとデートの約束をしていたので、迎えに来てしまった。最近は仕事もそこまで忙しくないおかげで夏目くんのように定時上がりが出来る日が少しだけある。みんなにお礼も言いたかったから研究室に来たけど、内緒で来たのはたまには郁人さんを驚かせたいなっていう悪戯心もある。
「今日の郁人さん、いつもと少し違うんだ」
「へえ、そうなんだ?」
どこが違うんだろう、ちょっと楽しみだ。ひかるくんと潔くんとおしゃべりをしながら郁人さんが戻ってくるのを待っていると、数分後研究室のドアが開いた。
「あのモーミン崩れが…! 長々としょうもない話に付き合わせやがって…!」
イライラした様子で戻ってきた郁人さんは私がのんきに研究室でコーヒーを飲んでる姿を見て、固まってしまった。
「仕事が早く終わったんで、迎えに来ました」
「あ、ああ。そうか。もう少し待ってろ」
「急がないで大丈夫です」
「すぐ済む」
郁人さんは自分のデスクに戻ると、力強くキーボードを叩き始める。その音を聞きながら、ひかるくんがこそっと私に耳打ちする。
「郁人さんのネクタイ。玲さん、可愛いの選んだね」
「!」
ふふとひかるくんは笑う。
「それじゃ郁人さん、僕たち帰りまーす」
「お疲れ様でした…!」
「ああ、気を付けて帰れ」
それじゃ、と別れの挨拶を済ませるとひかるくんと潔くんは一緒に研究室から出て行った。私は一人コーヒーを飲みながら、郁人さんの背中を見る。
(こうやって郁人さんの背中を見る時間、好きだなぁ)
一緒に過ごす時間、同じことをしていなくてもただ同じ空間にいるだけで幸せだと感じる。そういう関係って温かいなと思う。
それからしばらくして、郁人さんはパソコンの電源を切って立ち上がる。
「待たせたな」
「いえ、郁人さんの背中見てるの好きなんで大丈夫です」
「…!」
郁人さんの顔が赤くなる。
「今度から連絡なしに来るなら研究室じゃなくて、俺の家にしろ」
「もしかして迷惑でした?」
「違う」
郁人さんは私に大股で近づき、突然強く抱きしめた。
「郁人さ…!」
「お前が会いに来て嬉しくても、他の奴がいたらこうやってすぐ抱きしめられないだろ」
「…!」
今度は私が赤くなる番のようだ。
少しずつ、私たちの距離は近づいている。
郁人さんの背中に腕を回し、そっと胸に頬を押し当てる。郁人さんの首元にあるネクタイは私が贈ったピンクのネクタイだった。
(おやすみって言って、おはようって言える日は案外もうすぐ傍まで来てるのかもしれない)
そんな事を考えながら、郁人さんの少し早くなった鼓動を感じた。

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