何者でもない私(アドニス編・山条×市香)

この人の傍にいたら、私は何者になってしまうんだろうかーー
「よう、嬢ちゃん」

廊下でばったり山条と出くわした。
探りをいれるために足繁く彼の元へ通っていたのはつい最近の出来事だ。
けれど、私はある日を境にそれをやめた。
もう十分親しくなった…もとい、山条が裏切っていないであろう事は確認できた。
だからこれ以上関わらなくて良いだろうと判断した。

「どうかしたの」

努めて冷静な声を出したのに、山条はそれが面白くなかったのか眉間に皺を寄せた。

「おなかが痛いとか?」
「なんでそうなるんだ」
「不機嫌そうな顔してるから」
「腹痛いくらいで顔に出すわけねぇだろ」
「そう、それなら良い。それじゃ」

山条に別れを告げ、横を通り過ぎようとすると腕を強く引かれた。

「なに?」
「美味い大吟醸が手に入った。今夜どうだ?」
「………」

以前、山条に飲ませてもらった日本酒は美味しかった。一杯だけのつもりがついつい飲み過ぎてしまった。

「飲むだろ?」

山条と飲むのはストレス発散になる。
そしてちょうどお酒を飲みたいとは思っていた。
でも、これ以上山条に深入りしては……

ぐるぐると頭のなかで考えが散らばっていく。
そんな私をみて、山条は鼻で笑った。

「つまみ作って持ってこいよ。んじゃ、後でな」

「山条!私はまだ行くなんて言ってない…!」

山条はそれ以上はなにも言わず、手をひらひらとさせて去っていった。

行かなければ良い。
私は約束なんてしてないのだから。

それなのに。
私はどうして簡単につまめて、日本酒にあいそうなものをお盆に載せて持っているのか。
山条の部屋の前に着き、どうして自分はここに来てしまったのかと一人ため息をつく。

「人の部屋の前で辛気くさいため息ついてんじゃねぇ」

「山条…!!」

「入れよ。お、美味そうじゃねえか」

ドアを大きく開け、私を招き入れると山条は定位置に座る。
私もその正面に腰を下ろした。
テーブルの上におつまみをおくと、山条はすぐさま日本酒の瓶を得意気に見せてきた。

「…!それは!!」

「獺祭だ。良い酒だろう?」

「初めて飲む」

獺祭は日本酒に詳しくない人間でも一度は耳にしたことがある名前だろう。
私も一度は飲んでみたいと思っていたお酒だ。

用意されていたグラスになみなみと注がれる獺祭を見つめていると、わくわくとした気分になる。
山条は手酌でつぐとグラスを持って、私に向かって掲げた。

「お疲れ」

「お疲れ様」

軽くグラスを合わせると私はグラスにそっと口をつけた。
その瞬間、ふわっとした花のような香りがした。

「…!おいしい」

思わず言葉にしていた。
飲みやすくて、ついつい飲み過ぎてしまいそうな味わいだ。

「俺はもう少し辛くてもいいけど、美味いな」

山条も満足げにグラスを傾け、私の作ったおつまみを食べていた。

二人で他愛のないことを話しながらもう少し…もう少しだけ…と気づけば三杯以上飲んでしまっていた。

こんな風にお酒を飲んでいるとここがどこだかわすれてしまいそうになる。
アドニスの本拠地だなんて、思えないくらい居心地が良くて、お酒の力もあって、少しずつ蓋をしていた感情が顔を除き始めてしまう。

「嬢ちゃん、意外と家庭的なんだな」

納豆がつまった油揚げにかぶりついて、山条はそんなことを言う。

「ここに来る前は料理…好きだったから」

「へぇ」

そう、香月の好きなものを作ってあげたくて、男の子だからお肉が好きで、でも野菜も食べないと栄養が偏るし…とよくお弁当の中身に悩んだのを思い出してしまった。

「嬢ちゃん」

山条に呼ばれて、はっとする。
今、何を考えてた?
蓋をした記憶は、一度思い出すと堰をきったように次から次へと溢れていく。

口を聞いてくれなくなって、どうして良いか悩んだ日々。
でも私が作ったお弁当はいつも綺麗に平らげてくれたこと。
ギターを練習する香月を注意したら、物凄い剣幕で怒られてしまったこと。
あの子がどれだけ一生懸命音楽に向き合っていたのとか。
もっともっと一緒にいて、香月がどんな大人になるのか、夢を掴む姿をこの目で見守りたかった。

「さんじょうのせい」

「は?」

私は今どんな顔をしているのか分からない。
だけど、目の前にいる男のせいで記憶は容易く開かれた。

私は悔しくて、我慢できなくて山条の脇腹に手を伸ばした。

「!!!このやろ…!!!」

すっかり油断しきっていた山条が私を引き剥がそうとしても、もう遅い。
私は全力で脇腹をくすぐりにかかった。
普段の山条の仏頂面しか知らない人は彼が脇腹をくすぐられただけでこんなに表情を崩すとは思うまい。
後ろに後ずさって逃げようとした山条を追ったら、気付いたら山条を押し倒すような格好になっていた。

「…その体勢は都合の良いようにとるけど良いんだな?」

「この体勢は私の方が優位であることに変わりない」

山条の瞳が私を見上げている。
意外ときれいな瞳の色をしていることに気づいてしまった。

「はぁ」

くすぐり疲れたのか、私はくらりと重力に逆らえず、山条の胸に顔をおろした。
どくどくと山条の心臓の音が聞こえる。

「どうしてさんじょーはあったかいの」
「なんだその質問」
「どうしてさんじょーはおいしいお酒ばっかりのんでるの」
「そりゃ美味い酒飲んだ方が気分良いだろ」
「…たしかに」
「おい、嬢ちゃん」

山条の手がそっと私の頭に触れた。

「こどものころ、両親が弟を褒める時そうやって頭をなでたの」

「へぇ」

「わたしもなでてほしくてがんばるんだけど、両親はわたしに興味なくて、なでてくれないの」

「ふぅん」

適当な相づちを打ちながらも山条の手は私の頭を撫で続ける。

「香月のことうらやましいなっておもうこともあったけど、…それよりもだいすきな気持ちがつよかったの」

香月のことが大好きだった。
一番守りたかった私の弟。
私のたった一人の弟。
それなのに、私のせいであの子の未来を奪ってしまった。

「ふぇっ…かづきぃ……」

視界がぼやける。
生暖かい滴が山条の胸を濡らしていく。

「おねーちゃんは…かづきがいたからおねーちゃんだったのに」

香月を失って、大事な人を失って…
星野市香は死んだ。
今の私は過去の私ではない。
私は……

「嬢ちゃん」

山条が私を呼ぶ。ぼやけた視界にうつる山条は少し滑稽に見える。
頭を撫でていた手が後ろに回り、強く引き寄せられた。
ぼやけていた視界が驚きでクリアになる。

「ーっ!」

山条は私の唇を塞いでいた。
どれくらいの時間だろうか。数秒にも満たない口づけだったのだろうが、私には酷く長く感じられた。

「俺はぼんきゅっぼんで色気のある女がタイプなんだが……まぁ、嬢ちゃんみたいな女も嫌いじゃねぇ。いつの間にかな」

「何をいって…」

「過去のお前なんか俺は知らねぇ。お前だって過去の俺を知らねぇのと一緒だ」

経歴や出来事は知っているが、そういうことを言っているのではないだろう。

「大人しく絆されてろ」

絆されたわけでもない。
ましてや恋なんかでもない。
だけど。

山条の隣に安堵している自分がいた。
だから通うのをやめたのだ。
私が作り出した私を壊されたくなかったから。

「さんじょ…」
二度目のキスはさっきと違った。
私は拒むのも馬鹿らしくなって、それを大人しく受け入れた。
山条の隣にいたら、私は何者になってしまうのか。
昔のような星野市香になるの?
それとも今の私のままでいられるの?
どうなるのか、酷く怖いのに
私は山条の手を強く握ったー

良かったらポチっとお願いします!
  •  (13)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA