名前を呼んで(郁玲)

「早乙女さん、コーヒーと紅茶どっち飲みますか?」
「紅茶。ミルクと砂糖多めで」
(早乙女さんの多めは予想を上回る多めだからなぁ)
勝手知ったる他人の家。今日は土曜日。私も早乙女さんも仕事が休みだったので、家にお邪魔している。
手土産に買ってきたケーキを食べようとお茶の支度をしていると背後から物凄い圧を感じて振り返った。
「おい、あんぽんたん」
「そうです、あんぽんたんですね。どうしました?」
返事をしながら電子ケトルに水を入れ、お湯を沸かしながらアールグレイの茶葉が入った缶を手に取る。その様子を不機嫌そうな顔をしながらなぜかすぐ近くで見守っている早乙女さん。
「どうしました?」
もう一度訪ねてみると、早乙女さんは深いため息をついて、私の肩を掴んだ。そのまま私を振り向かせると頭突きする勢いで私の額に自分の額を寄せてきた。
「ぐっ、痛い…」
「お前の頭は石なのか、割れるかと思ったぞ頭」
「いや、私も痛かったんで痛み分けです。それでどうして私は頭突きされたんでしょうか…?」
「頭突きじゃない、スキンシップだ」
(スキンシップで頭突きって斬新だなぁ)
額を撫でながら早乙女さんを見上げる。早乙女さんのおでこもうっすら赤くなっていたから大層痛かったのではないかと思う。
「早乙女さん、おでこ」
「それだ」
「え?」
「俺はお前のなんなんだ」
そう言われて、じわりと頬が熱くなる。休日にプライベートで頻繁に異性の部屋を訪れる理由なんて、一つしか私には浮かばない。そして、その一つが今の私たちの関係の名称だ。
「…恋人、ですね」
「その恋人をいつまで苗字で呼び続けるんだ、この間抜け」
「呼びなれたものを変えるのってなかなか難しいんですよ……それに早乙女さんだって私の名前、呼んでないと思いますけど」
「玲」
きっぱりとした口調で私の名前を口にする。
「玲」
今度は優しげに。ああ、表情も少し柔らかくなっている。この人はそういう部分がずるい。胸の奥がきゅっと締め付けられるようなトキメキが私を襲う。
「ほら、呼んだぞ。お前も呼べ」
「うぅっ…い、郁人さん?」
「なんで疑問形なんだ。俺の名前は疑問形で呼ぶようなものじゃない」
「郁人さん!」
今度は力いっぱい呼ぶ。
「ああ、なんだ?玲」
「…どうしてそんなにすんなり切り替えられるんですか、早乙女さんは」
「おい、戻ってるぞ。あんぽんたん」
「早乙女さんも戻ってますよ」
ちっと盛大な舌打ちの後、早乙女さんは私が買ってきたケーキをお皿に移動させてくれた。その隣で私はティーポットにお湯を注ぐ。
「…郁人さん。私も出来る限り早く呼べるように頑張ります」
「ああ、善処しろ」
「はい…!」
笑顔で返すと、早乙女さんも少し呆れが混じった表情で笑ってくれた。

(どうしてすんなり呼べるかって…そんなもん、もうずっと前から心の中ではお前の事をそう呼んでたからに決まってるだろうが)

なんて事を郁人さんが考えていると知るのは、もっともっと先のお話。

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