幸福というものは誰かの犠牲の上に成り立っていると以前読んだ本に書いてあった。私はその言葉を時々思い出してしまう。
「リーゼ、どうかしたのかい」
「フェルゼン様…」
窓の外を見つめている私をそっと後ろから抱きすくめる。フェルゼン様は私が見つめていた方向を見て、私が何を…いや、誰のことを考えていたのか気付いたようだ。
「君にとって、彼女は決して良い人という事はなかっただろうに…」
「そうですね。良い人ではありませんでした。だけど、アントワネット様がいたからここまでたどり着けたのは事実です」
アントワネット様に出会わなければ、私は今でもオーストリアで家族と共に生活していたのではないだろうか。
「もしも、時間が戻るとしたらどうする?」
「え?」
フェルゼン様は突然そんな事を口にした。
「外見を変えてくれる身代わりの薬があるんだから時間を巻き戻す薬があってもおかしくないだろう」
「それはいくらなんでも無理を言いすぎですよ。でもそうですね…もしもそんな薬があったとしたら」
幸福は、誰かの犠牲の上に成り立つもの。
確かに私たちが生きていくために口にしている食事だって、他の生命を奪って自らの糧にしているのだ。
だけど、私は自分が幸せを得る為に他人が不幸になっていいとは思えない。全ての人が幸福になれたらいいのに、なんて絵空事みたいな事を願ってしまうのだ。
「私は何度時間が戻っても、何度繰り返しても、きっと同じ道を辿ります」
「ほう、それはどうして?」
「さあ、どうしてでしょう」
ちょっと意地悪く笑ってみせると、フェルゼン様は私をぎゅうっときつく抱き締めた。
「最近の君はちょっと意地悪になってきたな」
「だってフェルゼン様が私に沢山隠し事をしているからですよ。だから私も秘密を持つんです」
「それは手厳しいな」
窓の外には庭園が見える。そこを散歩している時に話した事があった。プレゼント交換に頭を悩ませて、考えた結果、アントーニア様に一輪の薔薇を贈ったことを。あの日から随分時間が経ってしまったけど、今でも薔薇を見るとあの日々を思い出してしまう。
「フェルゼン様の腕の中が、好きだからです」
「え?」
「何度繰り返しても、私はあなたの腕の中が一番好きだと思うから。同じ道を辿りたいんです」
もしもあの時と悔やむ事だって沢山ある。私に何かできたかもしれないし、そんな力はやっぱりなくて自分の無力さをかみ締める事しかできないかもしれない。
けれど、フェルゼン様と関わっていくうちに、彼の言葉に翻弄されながらも惹かれていく気持ちがあったから―
「フェルゼン様?」
何も言葉を返してこないフェルゼン様が気になって振り返ろうとすると、振り向けないように両腕で動きを封じられてしまう。
「今振り返ってはいけません」
「えっ、どうして…」
私はその時気付いた。ちょうど私たちの前にある窓に私たちが映っていることを。そして、そこにいるフェルゼン様の顔がびっくりするくらい赤くなっていることを。
「フェルゼン様、前を見てみると…いいかもしれないです」
フェルゼン様の反応に、私もちょっと恥ずかしい事を言ってしまったな、とじわじわと熱が顔に集まっていく。フェルゼン様は窓に映っている私たちに気付くと、諦めたのか私の体を反転させて、向かい合わせになった。
「突然あなたが可愛らしいことを言うから驚いてしまったんです」
「そんなつもりはなかったんですけど」
「じゃあ、どんなつもりだったんです?」
そっと顎を持ち上げられ、唇が近づく。甘えるみたいに額がくっつくと、もう瞳をそらせない。
「フェルゼン様と一緒にいられる事が幸福だなって思ったのでそれを言っただ……」
自分から質問したのに、最後まで聞かないなんて。
重なった唇が飲み込んでしまった言葉なんてきっとフェルゼン様は分かっているだろうけど。
(あなたを愛して、あなたに愛されて、私は幸福です)
ここまで来るために沢山の悲しい出来事があった。その全てを忘れないで、私はこの人と生きていこう。
私ができるのはそれだけだから。
私を抱き締めてくれる優しい人を、私もそっと抱き締め返した。