街を歩いていると、若い男女が手を繋いで歩く姿や年老いた夫婦が一つの買い物袋を二人で持っている姿を見かける。
その人たちの表情はとても幸福そうに見えた。
どういうものが、幸福というのだろうか。
道行く人は当たり前のように幸福を手にしているのに、自分が持っているそれは幸福ではないのだろうか。
分からなくて、私は自分のスカートの裾をきつく握り締めた。
「おや、どうしたんだい。フランシスカ」
ふと、後ろから声をかけられる。
振り返らなくたって相手が誰か分かってる。
振り返るか振り返るまいか躊躇していると、私の前に彼は現れた。
そして、スカートの裾を握り締めていた手を取って、いつもの軽薄そうな笑みを浮かべた。
「君の手は冷たいんだね」
「ええ、そうね。あなたに触れられても平気なように冷たいの」
私の言葉を聞いてきょとんとした顔が次の瞬間優しい笑みに変わった。
「はは、そうか」
「何がおかしいっていうの」
「君は私に触れられる前提で手を冷たくしていたなんて、可愛いところもあるんだな」
「-っ!!そんなんじゃ…!」
慌ててエイプリルの手を振り払おうとしたが、彼は私の手を離すまいと強く握った。
「それなら私が温めないといけないな」
そう言って笑ったエイプリルの手は温かくて、苦しくなった。
***
結婚した当初は当主としての務めを果たそうとしていたエイプリルは、気づけばふらふらと出かけては深夜だったり、朝に帰ってくるようになってしまった。
けれど、ラヴァンがおなかに宿ったと分かるとエイプリルは心を入れ替えたように結婚した当初のように働き始めた。
「フランシスカ、こんなところで眠っていたら風邪をひいてしまうだろう」
ラヴァンが揺り篭の中ですやすやと眠っている隣で、私は編み物をしていたのだけど、気付いたら眠ってしまっていたようだ。
エイプリルに肩を揺すられて、目を覚ます。
「帰ってたのね、エイプリル」
「ああ、ただいま」
そう言って私の肩を引き寄せると、優しく抱き締められた。
この季節は夜が冷える。エイプリルの体は冷え切っていた。
彼を温めるように私は抱き締め返した。
「いつの間にか君は温かくなったな」
「何を言ってるの」
「覚えていないのか、私たちが初めて手を繋いだ日のことを」
なんでもない日だった。
一人で茶葉を買いに出かけた時、エイプリルに出会った。
スカートを握り締めていた私の手を、エイプリルが握った。
ただ、それだけの日。
「覚えていたの…?」
そんな些細な事をエイプリルが覚えていた事に驚いて、彼の顔を見るといつもの軽薄な笑みを浮かべていた。そして、あの日のように私の手を取って、離すまいと握った。
「君との思い出を忘れるわけ、ないだろう」
軽薄な男が言いそうな台詞。
それなのに、私はあの時のように苦しくなる。
溺れて呼吸が出来ないみたいに苦しい。
こんなものが幸福なわけがない。
私の手には、幸福なんてない。
じゃあ、これは一体なに?
「エイ…」
名前を呼ぼうとした時だった。
「ふぎゃあああ!!」
いい子に眠っていたラヴァンが火がついたように泣き出した。
私は慌ててエイプリルから離れるとラヴァンを抱き上げた。
「どうしたの?ラヴァン」
あやすように揺すると、少しずつ泣き声は小さくなっていく。
「君は立派な母親になったね」
エイプリルはそんな私とラヴァンを見て、どこか淋しそうに呟いた。
「あなたは変わらず駄目な父親ね」
「おや、手厳しいね」
「ええ、当然でしょう。ねえ、ラヴァン」
ラヴァンに微笑むと、私に同意するみたいに手をばたばたとさせた。
エイプリルはわざとらしく肩をすくめると、ラヴァンの小さな手をそっと包んだ。
「ラヴァンもそう思うかい?」
「あうー」
「ラヴァンはそんな事ないって言っているぞ」
「全く…あなたって調子が良いんだから」
自分の都合の良いようにラヴァンの言葉を解釈するなんて。
エイプリルらしいと笑った。
多分、あれが幸福だったのだろう。
エイプリルがいなくなった屋敷の中、
エイプリルの代わりに当主として働きながら憎たらしい笑みを思い出す。
軽薄な笑みばかり浮かべて、どうしようもない人だと憎んでいたのに、ふと思い出す彼との時間は優しいものばかりだった。
スカートの裾をきつく握り締めても、もう誰も私の手を握ってはくれなかった。