「ほーしの!」
昼休み、星野が所属する部署へと顔を出す。
彼女はパソコンとにらめっこしていた。
「あ、冴木くん」
「今日さ、ひさしぶりに仕事終わったら飲みにいかない?」
飲むジャスチャーをし、星野を誘う。
すると、にらめっこしていた星野は笑顔に変わった。
「うん、いいよ。明日休みだし、私も今日、飲みたいなって思ってたんだ」
実は星野のシフトをこっそりと確認しておいた。
誘うなら休みの前日。
そうじゃないと星野はあんまり酒を飲まないから。
けど、毎回休みの前日に誘うと不審がられるかもしれないのでそこは気をつけている。
「じゃあ、仕事終わったら玄関で」
「うん、分かった」
星野と約束を交わし、俺はご機嫌に階段を駆け上った。
◇
仕事が終わり、私服に着替える。
鏡の前で髪もちょっとだけセットしなおす。
鼻歌を歌いそうになりながらも、それを堪えつつ玄関へ移動する。
星野はまだ来ていなかった。壁にもたれながらスマホを取り出し、時間を潰していると駆けてくる足音が聞こえた。
「お待たせ、冴木くん!」
「いや、全然。じゃあ行こうか」
いつもの店を目指して二人で並んで歩く。
季節は秋。
夜になると風も冷たくなってきた。
東京の冬は雪も降らないし、寒くないだろうと思いきやそんな事はない。
雪がない分、冷え切った空気に凍りそうになる。
そんな季節がもうすぐ来るのだ。
「もうすっかり寒くなったね」
「ああ、そうだな。まだかろうじて息は白くならないけどあっという間に冬だな~」
「あっという間だね」
星野はどこか寂しげに笑った。
きっと、例の事件が頭の片隅から離れないんだろう。
「ま、今日はぱーっと飲もうぜ!
俺のおごり!って言いたいところだけど、今月ピンチなんだ」
「冴木くんいっつもピンチだよね。
それにおごって欲しくて飲みにいくわけじゃないし」
さらりと言われた言葉にうっかりときめく。
「星野は優しいなー」
「そんな事ないよ」
星野は優しい。
優しいだけじゃない、強さを持っている。
俺は知っている、お前の強さ…正義を。
店に着くといつもの場所が空いていたので、そこに通される。
生ビールを頼み、それから適当につまめるものを注文する。
「じゃ、お疲れー」
「お疲れ様ー」
乾杯をして、ビールをゴクゴクと飲む。
星野は意外にイケる口で、最初の一口で半分近く飲み干してしまう。
多分、飲まなきゃやってられないっていう気分だったのかもしれない。
「そういえば星野ってさー、パソコン作業苦手だろ?」
「え?どうして?」
「だってお前、パソコンに向かってる時険しい顔してるぞ」
「…っ、キーボード叩くだけなら苦手っていうわけじゃないと思うんだけど。
エクセルとか苦手なんだよね…」
はぁーっとため息をついて、枝豆を食べる。
「お前って分かりやすいもんな」
「そんな事…まぁ、確かに言われるけど。
香月にもよく顔に出てるって言われるし」
星野の弟は絶賛反抗期らしく、ほとんど口を利いてくれないそうだ。
会話すると大体口論になってしまう、とこないだも零していた。
「男の子って難しいね」
「まぁまぁ、一生反抗期ってわけじゃないんだし」
そう言って、二杯目のビールを注文する。
「冴木くんの小さい頃ってどんな感じだったの?」
「え?」
「あんまり聞いた事ないなーって」
「そうだなー、俺の小さい頃は」
父親だと思いたくもないような男の手によって、母親と真っ白な何もない部屋の中で過ごし、その母親からも存在を否定され続けただなんて言ったら星野はどんな顔をするんだろう。
酒を飲んで、少し紅くなっている頬や、少し潤んだ瞳を見て、そんな事を思った。
「どこにでもいるような普通の男の子だよ」
「普通の男の子かぁ」
「そう。正義に燃えてたまんま大きくなりました」
「ふふ、そうなんだ」
星野は深くつっこまずに笑うだけだった。
それに安堵する自分と、悲しく思う自分がいた。
もっと俺を知りたいと思って欲しい。いや、あんまり踏み込みすぎてはダメだ。
でも、俺に散々踏み込んだ後、星野が真実を知ったらどうするんだろう。
俺を哀れむのか。俺を憎むのか。それとも…
「星野の小さい頃は?」
「私の小さい頃は、そうだなぁ…家の手伝いしたり、香月と遊んだりだったかなぁ」
「ふうん。そっか」
本当は星野市香の経歴全てを把握しているから聞かなくても分かっているけど。
「でも、星野って市香って言うだろ?で、弟は香月。姉弟なんだなーって名前で良いよな」
「そうかな?」
「しりとり…ていうのが合ってるか分かんないけど、続いてるなーって分かるし」
「ふふ、確かにそうかも」
運ばれてきた二杯目のビールを受け取る。
ナスの煮浸しを口に運んだ星野は、思い出したみたいに言葉を紡いだ。
「そういえば、冴木くんに市香って言われるのってなんだかくすぐったいね」
「え?」
「んー違うか。職場ならもちろん星野って呼ばれる事がほとんどだし、最近だと香月にしか呼ばれてないかも」
「なあ、星野」
「ん?」
「じゃあ俺の事もちょっとだけゆづるって呼んでよ」
「え?どうして?」
「星野の声で、聞きたいなーなんて」
苦し紛れの言い訳を口にしてみる。
冴木弓弦なんて、この世に存在しないから。
酒のせいかなのか…俺を、俺として呼んで欲しいなんて思ってしまった。
「…なんだか恥ずかしいなぁ」
「ほらほら、いいから」
冗談めかして、ジョッキを両手で持つ星野の手をつっつく。
「…弓弦くん」
深呼吸をしてから、星野は小さな声でそう言った。
周囲のガヤガヤとざわついた声がするはずなのに、それでも星野の声は確かに聞こえた。
「あ~」
「はい、呼んだよ!」
思わずテーブルに両肘をついて、顔を手で覆った。
多分、今の俺は顔が真っ赤だ。
自分で言わせたくせに、こんな事で紅くなるなんて。
「市香、俺はもう駄目だ」
苦し紛れに、彼氏ぶって彼女の名前を口に出す。
返事がいつまで経っても返ってこないから、俺は顔を上げた。
「…、なんかそれは反則だよ。冴木くん」
アルコールのせいだけではなく、星野が赤くなっていた。
それから話題を変えて、何事もなかったように俺たちは酒を飲み続けた。
店を出る頃には、すっかり外は寒くなっていた。
「この風だったらあっという間に酔いも冷めるね」
「…だな」
「冴木くんは明日仕事でしょ?」
「ああ、そうだよ。休みだったらもう一軒!って言ったんだけどなー」
「今月ピンチって言ったくせに」
星野は酒が入るといつもより感情表現が豊かになる。
だからさっきから笑ってばっかりだ。
それがまた可愛くて、俺も笑ってしまう。
「じゃあ駅まで一緒に帰ろ」
「うん」
一緒に並んで歩く。
アルコールのせいだろう。いつもより二人の距離は近い。
ちらりと星野の首筋を盗み見る。
綺麗な白い肌。そこにもう少ししたら、首輪をはめる。
彼女の命を俺が握るために。
彼女の正義で、俺を殺してもらうために。
「星野と同期でよかったなぁ、俺」
「私も冴木くんと同期でよかった」
こんな時間がいつまでも続けばいいと願いながら、もう全てが手遅れだ。
星野の笑う顔をみて、なぜだか泣きたくなった。