彼女に教えてもらったパンを食べて以来、すっかりパン作りにハマってしまった。
薬草を煎じるのと少し似た工程や、酵母を発酵させていくうちに膨らむパン生地とか、焼きあがった時の香ばしい香りや自分の中でこういうところ良いなって思う箇所がたくさんあるけれど、そういうものよりもこの瞬間が一番好きだ。
「ニケ!今日のもすっごく美味しい!」
ランが僕の作ったパンを両手で持ちながらかじりつく。
パンの粉が彼女の愛らしい鼻についてしまうが、それに気付かず食べる彼女はリスみたいで可愛い。
「ラン、ここについてる」
鼻の頭を指でそっとなぞると粉はとれるが、代わりにランの顔が朱に染まった。
「やだ、恥ずかしい」
「落ち着いて食べてね」
僕がそういうとこくりと頷いて、また食べ始めた。
穏やかな日々だった。
ランと過ごすどの時間も愛おしくて、なくしたくないと願っていた。
「ランは幸せそうに食べるよね」
「だって美味しいもの!」
間髪いれず返ってきた言葉に思わず吹き出してしまう。
彼女のそういう素直なところ、僕は好きだった。
「ニケはどんな時が幸せ?」
「僕?
そうだなぁ・・・」
そんな事聞かれると思っていなかったのに少し驚いてしまう。
幸せというものが何なのか分からない。
昔の僕ならそう言っただろう。
けれど、今はランと知り合い、こうして共に時間を過ごすようになって幸せという形のないものが分かるようになってきた。
「何気ないこういう時間かな」
ラン、君といるどの時間も僕にとっては幸福で、
そして水槽の中で呼吸が出来なくなった熱帯魚のように苦しいよ。
あれから時が流れて、ランに全てを知らせてしまい別離を決めた僕をランは止めてくれた。
あの時、彼女が追いかけてきてくれたから今、僕はランと一緒にいることが出来ている。
ニルヴァーナにいた頃は寮生活だから一緒の部屋で寝起きする事なんてなかったから、今同じ部屋ーベッドも一緒だと知ったら昔の僕はどんな表情をするのかな。パンの仕込みをするために僕はいつもランより早起きをする。
大体一緒の時間に起きようとしてくれるんだけど、昨夜無理をさせすぎたんだろう。
隣を見ると、すうすうと寝息を立てていた。
そっと頭を撫でると、少し表情が緩んだ。
どんな時が幸せだろう。
彼女といるどの時間も幸せだけど、僕はこの瞬間が一番好きだ。
目が覚めた時にランが隣にいてくれる。
それだけで今日も世界は輝いてみえる。
昔、僕が何気ない時間が幸せだとランに話した時、ランは微笑んだ。
「ニケの瞳に映る世界、私も見てみたいな。
きっとすごく綺麗なんだろうな」
僕の瞳に映る世界はランがいるから綺麗なんだよ
あの時言えなかった言葉をいつか君に伝えたい。