「一さん・・・一さん」
名前を呼んで欲しいといわれてから、何度となく繰り返している。
知り合って4年以上、彼のことを斎藤さんと呼んでいたのだ。
斎藤さんと呼ぶことが癖になっている。
だから私が間違って斎藤さんと呼ぶと彼は返事をしてくれない。
「はじめさん」
夕食の支度をしながら名前を呼ぶ。
もう少ししたらきっと彼は帰って来るだろう。
今日はお豆腐が安かったから多目に買った。
お味噌汁の具と冷奴に豆腐は登場する。
きっと豆腐好きな彼は喜んでくれるだろう。
「一さん、おかえりなさい」
帰って来る前に何度も練習する。
そう・・・今は私も斎藤なんだもの。
斎藤千鶴、かぁ。
字面を頭のなかで思い浮かべるとなんだか恥ずかしくなる。
「一さん」
「・・・なんだ、千鶴」
「-っ!?」
返事が返ってくるなんて誰が予想していただろう。
少なくとも私は予想していなかった。
慌てて振り返ると、頬を赤らめた一さんが立っていた。
「え、え!?どうしたんですか?」
「今日は少し早く終わってだな・・・急いで帰ってきたんだが、」
「お迎えもしないですいません!」
「いや、いいんだ。それより」
一歩前に踏み出し、私との距離をつめる。
「その・・・聞いていました?」
「ああ・・・その、俺の名前を何度か言っているのは聞こえた」
「~っ、」
恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う。
「は、一さんが帰ってきた時に名前を呼びたいな、とおもったんです」
「千鶴・・・」
だけど練習しているのを聞かれていたなんて恥ずかしくて顔を合わせづらい。
沈黙もいたたまれなくてどうしていいか分からなくなった時、一さんが動く気配がした。
それからそのまま抱き締められた。
「さっきのはよく聞こえなかったから・・・もう一度呼んでくれないか」
「聞こえたって」
「いや、聞こえなかった」
「・・・おかえりなさい、一さん」
「ああ、ただいま。千鶴」
ようやく顔を上げると、食卓にお豆腐が並んだ時以上に嬉しそうに微笑む一さんがいた。