多分、これは恋だなんて甘いものじゃない。
愛みたいな優しいものじゃない。
どちらかといえば、憎悪に近いのかもしれない。
憎悪のように心の中をじわじわと蝕んでいく。
振り返りもしない。見向きもしない。気づかない。
手を、伸ばしもしない。
俺の愛とは、そんな憎悪に近い感情だ。
◇
小さい頃、私はくそ生意気なガキだった。
それはもう昔の自分を思い出してはどうしようもないな、と自分で思うくらいに自覚はある。
セラスとの出会いもそうだった。
もしもセラスじゃなければ、あの時私は死んでいたかもしれない。
(他のドラゴンに出会った事がないが、おそらくドラゴンだって怒ることもあるだろう)
そして、セラスに出会う前・・・つまりもっとクソガキだった頃の私は、兄が大好きだった・・・ようだ。体の弱かった私の手を握り、寝ずに看病をしてくれた優しい兄。
魔法が使えない私のために、護身術を叩き込んだ横暴な兄。
マイセンは、私にとって世界の中心・・・とまではいかないけれど、私の隣に立ってくれる人だった。
「ご主人様の初恋の相手はどなたなんですか?」
「え?」
私のお気に入りの茶葉が手に入ったと嬉しそうに報告をしてきたセラスは、なんでもないことのようにそんな質問を投げかけてきた。
「珍しいわね、あんたが人間の色恋を聞きたがるなんて」
「人間じゃありません。ご主人様だから聞いているんです」
セラスは私以外の人間に興味はない。
私が死んだら、私の後を追うと宣言をしている愚かな従者。
そんな愚かな従者の質問への答えを探すべく記憶をたどる。
初恋・・・初めての恋。
「・・・まさか、ミラー=フェルデナンデスだとか言いませんよね?」
「ミラーだったかしら・・・うーん」
確かにミラーとは結婚式ごっこだったり、色々としていたけれど。
それよりももっと前に。
思い出そうと考えていると、セラスが面白くなさそうな顔をしていることに気づいた。
「ばかね、ミラーじゃないわ」
「・・・それなら良いんです。ご主人様が選ばれるお相手がまさかあいつなんて事はないでしょうし」
「ミラーだって私のこと嫌ってるじゃない」
「・・・さて、紅茶が入りましたよ」
何事もなかったかのように私の前にティーカップを置く。
傍らにはセラスお手製のイチゴのタルト。
「初恋、ねぇ」
ブラコンだといわれるかもしれないが、私の初恋はきっとマイセンだ。
少し年の離れた兄。
いつだって私を大事にしてくれた私の兄。
いつからか、マイセンは私を大事にしなくなった。
「また来ていたの、あんた」
「また、とは失礼だな。
幼馴染である君を心配して仕事を持ってきてやってるんじゃないか」
「結構よ。あんただって暇な身分じゃないんだからあんまりここに来ない方が良いんじゃない?」
ミラーは毎日のようにやってくる。
落ちぶれた(わけではないが、プリンセスという地位を剥奪されたのだから落ちぶれた?)私を見に来るのが日課らしい。
幼い頃、私たちは毎日のように一緒にいた。
飽きもせず、同じような遊びばかり繰り返し、時にはミラーを泣かせることもあった。
変わらない日々が続くとクソガキだった私は思っていた。
変わらないものなんて、何一つないのに。
ミラーが黙ってシンフォニアしたとき。
私は置いていかれたことに腹が立った。
ミラーのことで知らないことなんて何一つないと思っていた私はどうしようもなく腹が立った。
そして、悲しかった。
兄だけではなく、幼馴染まで私の傍から離れていった。
追いかけることが出来ないのは魔法が使えないから。
けれど、自分を不幸だとは思わなかった。
マスコットよろしく私の腕のなかに抱かれていたミニドラゴンの姿のセラスが、私を心配そうに眺めていたから。
「ふん!君だってそろそろ妙齢だろう。
このままだったら嫁の貰い手がなくなるぞ」
「お構いなく。あんたこそ早くお嫁さんもらいなさいよ」
「なっ・・・き、君は!」
ミラーは口をぱくぱくとさせ、私を見ていた。
「私、これから忙しいのよ!セラス!」
「はい、ご主人様。燃やしましょうか?」
「燃やさなくていいから。
ミラーを玄関までお送りして」
「かしこまりました」
「ちょ、アリシア・・・っ!」
扉を閉めても、ぎゃあぎゃあと二人が言い合う声が聞こえる。
それに構わず、実験を続けなければならない。
さっき頭のなかでひらめいた仮説を立証できれば、次の論文に役立つ。
すり鉢に、こないだマイセンが持ってきた薬草を細かちぎって入れる。
兄が凄い人物だということは、自分が同じ世界に身を置くようになって改めて分かった。
地位を剥奪された私には、もうマイセンとの血縁関係なんてあってないようなものだろう。
マイセンはプリンスだ。
私はもうプリンセスじゃない。
昔は私の手を握ってくれた兄は、もう兄じゃない。手のひらをぎゅっと握った。
ただ、虚しい気持ちになった。
「よう、アリシア」
「マイセン、どうしたの?」
それから数ヶ月経ったある日。
マイセンがやってきた。
「んー、お前の顔が見たくなった」
「・・・」
妹を口説くな、と昔叱ったことがあった。
この兄はそんな事覚えていないんだろうか。
黙って睨みつけるとマイセンは少し寂しそうな瞳をした。
「・・・なんてな。
ちょっと用事があったからついでに寄ったんだよ」
「でしょうね。
あんたが私に会うためだけにこんなところ来るなんて思ってないわ」
「おーおー、冷たいね」
「今ちょうどセラスが買い物に出てるから何にも出せないけど」
「ん、いいよ」
リビングにマイセンを通し、ソファに座らせる。
お茶くらい淹れてやろうとキッチンへ移動すると、マイセンがじっと見ていることに気づいた。
「何よ、そんなに見て」
「大きくなったなぁって思ってな」
「いつから比べてよ」
「お前が生まれた時から比べて」
「・・・ばかね」
私の何もかもを知っているような瞳で、私を見つめる。
マイセンなんて私の小さい頃しか知らないじゃない。
だって傍にいなかったのは、マイセンが離れたから。
だから、私も私の知らないマイセンがいる。
今、私を見つめるその人は、私が知っているマイセンなんだろうか。
「あんたの放浪癖はいつ直るの?お父様やお母様だって心配してるんじゃない?」
「んー、いつだろうな」
ティーカップをマイセンの前に置く。
さんきゅ、と言ってそれに口付けるとマイセンの口元が緩んだ。
「これ、俺が好きな茶葉だ」
「・・・違うわ、私が好きな茶葉よ」
兄妹だから、味覚だって似るだろう。
なんでもない事のようにさらりと流す。
子どもじみた私の態度にマイセンは困ったように笑った。
「・・・俺が死ぬまでには、終わるといいな」
「あんたの放浪には何か目的があるの?」
「んー・・・そうだなぁ。あるのかもな」
「どんな目的?」
「たった一つ、使いたい魔法があるんだ」
「たったひとつ?」
「ああ」
ティーカップをソーサーに置くと、マイセンは私の頬をゆるりとなでた。
ふと、シンフォニアにいた頃を思い出す。
まるで愛おしいひとに触れるみたいにマイセンが私に触れたあの日。
この人にひどく愛されているような錯覚をしてしまう。
「お前が、幸せに生きて・・・死にますようにって願いをかなえてくれる魔法」
あの時みたいに、マイセンの瞳は揺れていた。
まるで恋のようだ。
触れたら壊れてしまうかもしれない、恋。
だけど、その指が私から離れることのほうが私は怖かった。
幼い頃、舞踏会でマイセンが他の女と踊る姿を見て、言いようのない気持ちになったのを思い出す。
私のマイセン。
私のマイセンに触れないで。触れさせないで。
そんな子どもじみた独占欲を私は今も、抱えているみたいだ。
「ばかね・・・」
兄の手が離れてしまわないように自分の手を重ねた。
「魔法なんかなくたって、私は幸せになるわ。
・・・マイセンがいたら、ね」
「・・・アリシア」
マイセンの瞳が、酷く熱っぽいものを帯びていく。
もう一方の手が、私の腰に回される。
もしかしたら私はこの瞬間を今までずっと待っていたのかもしれない。
「マイセン・・・私のマイセン」
この恋を、私は死んでも手放すわけにはいかない。