昔、お兄様に読んでいただいた本の中で今でも忘れられない話があります。
育ててくれた人や愛する人がいるのに、自分の生まれ故郷に帰らなくてはならない…そう、かぐや姫のお話です。
「ねえ、ウサギちゃん。ウサギちゃんはここで何して過ごしてるの?」
今日は紅百合さんとのお茶会。
特別なときに飲むことにしている茶葉が入った缶の蓋を開けると、とても良い香りがする。お湯をコポコポと注ぎ、少し蒸らしてからカップに淹れると、紅百合さんも良い香りだと喜んでくれた。
「そうですね…特別な事はそんなに……皆様と変わらないと思います」
「そうなんだ」
誰かが泣いているみたいな雨音。
泣いているように感じるのは、もしかしたら昔の自分を思い出すからかもしれない。
優しいお兄様。大好きだったお兄様。
笑った顔が大好きだった、私のたった一人のお兄様。
私が死んでしまって、お兄様の心は壊れてしまった。
そして、こんな場所まで堕ちてしまった。
きっと、今…私の顔を見ても何も思わないだろう。
それを確かめるのが怖くて、私はいつもお面を深く被る。
「ウサギちゃん?」
「昔、かぐや姫のお話を読んでくれた人がいました」
「かぐや姫! あれは淋しいお話だよね」
紅百合さんは紅茶を一口。うん、美味しいと改めて口にしてくれる。
この館には紅百合さんのような明るい、温かい人が欠けていた。
だからだろうか。お兄様……主様が少し取り乱していると感じる事があるのは。
「好きな人や、大事な人と離れてまで戻らなきゃいけない場所なんて……本当にあるのかな」
ぽつりと紅百合さんは呟いた。
沢山の大切なものを手離した先にあるもの。
私を生き返らせたいと願った果てにここへやってきてしまったお兄様。
今、この館にいる大半の方々はそれぞれ大事な生活を残して、ここにやってきてしまった。まるでかぐや姫みたいだと考えた事がある。
「緋影くんは大事なものあったのかな」
「え?」
「あ、えと…。緋影くんとなかなか仲良くなれなくて、あんまり話しかけると面倒くさそうな顔されちゃうからどうしたものかなーとか考えちゃって」
「紅百合さんは緋影さんが気になっているんですね」
「気になるっていっても違うよ!?なんていうか、ほっとけないっていうか…。
でも緋影くんにはほっといてくれってオーラ出されちゃってるし、うーーーん」
慌てふためいた後、しょぼんとする。
コロコロと変わる表情を見ていて、私でさえ可愛いと感じるのだからきっとお兄様もそう思っているんだろう。
自然と頬が緩んだ。
「応援してます、お二人のこと!」
「応援って、ウサギちゃんってば!そんなんじゃ…!!」
紅百合さんをからかうようにクスクスと笑う。
楽しくて、優しくて、愛おしい大事な時間。
お兄様以外の方とこんな風に過ごせるなんて知らなかった。
時間が止まったような世界。
ここから堕ちるしか、道なんて残されていない。
だけど。
堕ちるしかないとしても、行き着く先が決まっていたとしても。
少しの間でも、お兄様が紅百合さんという光と共にあれたら良い。
そんな事を考えながら、私は紅茶を一口飲んだ。
いつかお兄様と飲んだ煎茶とは随分違うけど、同じように優しい味がした。