あの時の私はまだ小さかったから、お母さんが死んだ事の意味をすぐには理解できなかった。
明日になっても、明後日になっても、お母さんに会えないということ。
お母さんが焼いてくれたホットケーキも、野菜がたくさん入ってるのに美味しいシチューも、私が上手に絵を描けた時やお手伝いをした時に撫でてくれた優しい手も、全て私の世界から消えてしまったという事が分かって、初めてお母さんの『死』というものを理解した。
私の心には、大きな孔が二つある。
お母さんの死によってできた孔よりも、大きなソレは彼が私に残したものでした。
***
突然館のなかに閉じ込められ、最初は記憶もなく、館で出会った彼らのことも知らなかったのに、一枚の写真から私は記憶を取り戻した。
取り戻したはずなのに…
「紅百合さん?」
「え?」
「なんだか焦げた匂いがするんだけど…」
「えっ!? あっ!」
今日はホワイトシチューにしようと決めて、私は野菜を炒めていたのに。
「やっちゃった…」
慌ててコンロの火を止めて、私は鍋の中を覗き込む。
飴色になるまで炒めるつもりだった玉ねぎは黒っぽくなり、美味しくなさそうだ。
貴重な食材になんて事を…と私が肩を落とすと、鉤翅さんが鍋の中を覗いて笑った。
「これくらいなら、大丈夫だよ。きっと」
一旦お皿に除けて、鉤翅さんは鍋の中に無事だった野菜たちをもう一度放り込んだ。
「ありがとう、鉤翅さん」
「珍しいね、紅百合さんがぼんやりしてるなんて」
「あ、うん…なんだろ……」
ナッちゃん…いや、ここでは鉤翅さんと呼ぶ事にしてるから鉤翅さんって言うけれど、小さい時からとても頼りになって、優しい鉤翅さんが大好きだった。
大人になったら、ナッちゃんと結婚したいとさえ思っていたんだ。
あんな小さい時に結婚だなんて今思うと子どもらしくて可愛いけど、恥ずかしくなる。
だって、あの頃の私は恋の意味も、愛の先も分かってなかったのに。
「記憶が戻ってから…私のココに、なんだかよく分からないんだけど孔を感じるの」
「孔?」
「うん」
両手で胸を抑えると、鉤翅さんの視線を感じて伏せていた目を彼に向けた。
「…そっか」
鉤翅さんは、哀しそうな瞳でぎこちなく微笑んだ。
その表情は、まるで世界にたった一人取り残されたみたいで私まで苦しくなった。
「きっと紅百合さんにとって、とても大切なものだったんだろうね」
「…そうかな」
「きっとそうだよ」
「……そうだね」
「紅百合さんは、誰よりも優しいから。きっと喪ったものに対しても情を残してしまうんだね」
「そんな事…」
いつも通りの笑みを浮かべて、「そろそろお肉も一緒に炒めようか」と私の目の前にある一口サイズに切られた鶏肉たちを鍋に入れるように促した。
それからは、もう一度料理に集中して、二人でクリームシチューを作った。
二人で料理をしていると、うっかり肩がぶつかったり、手が触れ合ったりする。
私はその度、心臓がきゅっとなった。
鉤翅さんが傍にいてくれると安心する。
安心するのに、胸が苦しくなる。
私はこの気持ちを知っている。
幼い頃、ナッちゃんといた時間。胸がいっぱいになったあの時と一緒。
私は彼に恋をしている。
きっと、この恋は館から現実の世界に戻る事ができた時に愛に変わるんじゃないだろうか。
そうなりますように。
そして、彼も私と同じ気持ちでありますように。
出来上がったクリームシチューの味見をして、美味しいと笑った鉤翅さんを見つめて、強く願った。