管理人室へ入ると、いつも通り耶告がそこにいた。
「耶告」
名前を呼ばれて振り返った耶告はしかめっ面になった。
その原因は分かっている。
私が髪を結んでいないからだ。
面倒な事が嫌いな私がなんでいっつもきちんと髪を結んでいるのか。
それはこの目の前の保護者の教えだ。
耶告が22歳のとき、私を引き取った。
女の子らしいことを、と耶告は考えたのだろう。
髪飾りをくれた時のことは今でも色鮮やかに覚えているし、
この髪の結い方を教え込まれたスパルタの日々だって目を閉じなくても覚えてる。
「お前、髪どうしたんだよ」
「耶告、結んで」
「はぁ?お前、自分で出来るだろう」
「面倒だから頼んでるんじゃないの。耶告にして欲しいから頼んでる」
毎日髪を結うのは正直面倒だ。
うん…毎日耶告が結んでくれるんならそれはそれでラッキーなんだけど、今それを言ったら叩かれる気がするから要点だけ伝える。
「…ったくお前は。ここ座れ」
「うん」
ソファに並んで座り、私は髪をいじりやすいように体ごと横をむいた。
耶告の手が私の髪にふれる。
こうしてもらうのはいつぶりだろう。
お風呂上り、髪を乾かすのが面倒だし、髪を結うのが面倒だし、切ってしまえばよかったのかもしれない。
だけど、耶告が一生懸命教えてくれたものをなくしてしまうのは惜しい気がした。
「ねえ、耶告」
「ん?」
「今日何の日か覚えてる?」
「さあ、何の日だったかな」
分かってるくせに。
いつも私が昼寝をしているとわざとらしいため息をするから、それを真似て私もわざとらしいため息をついてみせる。
「自分の誕生日、忘れるなんて」
「嘘だよ、覚えてる。まだそこまで年をとっちゃいない」
「まあ、耶告が忘れても私が覚えてるからいいんだけど。
欲しいもの、何かない?」
「お前、それを当日に本人に聞くのか?」
「だってもうネタ切れ」
何度一緒に誕生日を迎えただろう。
子どものとき、肩たたき券をあげようと考えた時もあったが面倒だったので一瞬で諦めた。
耶告はこうやって毎年聞いても教えてくれない。
欲しいものなんて特にないと言う。
「私だったら欲しいものいっぱいあるのに」
「例えば?」
「焼肉とか、快眠用枕…とか」
耶告の手料理をおなかいっぱい食べたい。
枕は別にこだわりなんてないけど、ちょっとチャレンジしてみてもいいかな、とか思う。
「お前はもっと花の女子高生らしく、可愛い洋服が欲しいとか小物が欲しいとかアクセサリーが欲しいとか言えないのか」
「うーん…」
そういうものに全く興味がないといえば嘘になるかもしれない。
だけど積極的に欲しいとも思わない。
「私の欲しいものは今いいよ。耶告は何が欲しい?」
同じ問いを繰り返す。
その内に私の髪を結うのは終わってしまった。
「そうだなぁ…」
私の髪から耶告の手が離れる。
耶告が離れることに一瞬寂しさを覚えた。
振り返ろうとすると、耶告が私を後ろからそっと抱き締めた。
「お前がいれば、欲しいものなんてないよ」
仄かにタバコの匂いがする。
頻繁に吸う訳じゃないし、私がいる時には吸わないからあまり意識していなかったがこの距離だと感じる。
「やつぐ…?」
「悪い。久しぶりに髪なんて結ったからお前が子どもの頃思い出しただけだ」
耶告はすぐ私から離れ、なんでもないように笑った。
「もう高校生なんだもんな、お前」
分かりきっていることを改めて言う。
その表情は少しだけ寂しそうだ。
「よし、飯作ってやるよ。何が食べたい?」
「…耶告の誕生日なのに」
「じゃあ、後でケーキでも買いにいこうか。お前のおごりで」
「ろうそく35本立ててあげるね」
「にんじんだらけの飯にするぞ」
「ごめんなさい、嘘です」
いつも通りの会話。
小さな時は耶告と眠っていたときだってあった。
抱っこしてもらったり、肩車をしてもらったことだってある。
なのに、今更耶告にドキドキしている自分がいる。
寮に入るまでは耶告と二人きりの世界に近かったのに、それが変わったから私の心にも変化が現れたんだろうか。
分からない。
「耶告」
名前を呼ぶ。
「誕生日、おめでとう」
今まで何度も言ってきた言葉。
「ああ、ありがとう。紘可」
今日は耶告の誕生日。
初めて、耶告を男の人だと意識した日。