「おい、ユキ。おまえがここに固執する必要なんてないぞ」
「…」
喉が渇いたわけでもないのにユヅキの視線から逃げたくて手を伸ばしたグラスはすっかり汗をかいていた。
氷はとけてしまった麦茶はぬるくなってしまっていた。
「ユヅキが心配するようなことは何もないですけど」
誤魔化すように麦茶を一口飲む。
夏に飲む麦茶はどの季節よりもずっと美味しく感じるはずなのに、今なんとも思えない。あれから2年経った。
僕は中学三年生になり、来年は高校生ということだ。
この町を出るかどうか、選択することが出来るのだ。
「母親のことか」
僕は母親と二人暮らしだ。
確かに母親を一人で置いていくのは可哀想だとも思うが、病院があるからきっと彼女は仕事の忙しさが救ってくれるだろう。
「だからユヅキが心配するようなことはありませんよ。
僕は跡取りになるつもりもありませんし」
「俺が言ってるのはそういう事じゃないってわかってるだろ」
ええ、分かっています。
分かっていますとも。
だけど、ユヅキの勧めも何もかも受け入れることは出来ない。
「ユキくーん、買出しいってくるけどなにか・・・げっ」
「げっ、とは不躾だな。さっさと働け」
「はいはーい。で、ユキくんなにかある?」
「いえ、大丈夫ですよ。さっきお願いしたものだけで充分です」
「了解!それじゃあいってくるねー」
須沙野さんが出て行くのを見送ると、ユヅキがわざとらしくため息をついた。
「…一時の好きな女のために自分の選択肢を狭める必要はないだろう」
「そんなんじゃありません」
もう会話を続けないという意思表示のように、残りの麦茶を飲み干した。
はじめは危なっかしくて目で追ってしまっただけだ。
次に、肉親ですら僕を甘やかそうなんてしなくなったのに僕の頭を撫でて笑うようになった…その笑顔が脳裏に焼きついた。
落ち着きがなくて、僕より子どもなんじゃないかと思う事もあるのに、たまに見せる悲しそうな顔から目がそらせなくなった。
あの夏から二年。
彼女は本当の意味で笑わなくなった。
こんな小さな町で、連続殺人。ライブの中止-そんな出来事が数日の間に起きたのだ。
忘れられるわけもない。
一度だけ聞いたことがある。
どうかしたのか、と。
僕にはどう聞いていいのか分からなくて、そう口にした。
なんでもないんだよ、と彼女は笑った。
あの夏から、彼女は僕を撫でなくなった。
「…自分の選択肢、か」
母親の病院を継ぐためにも僕は医大に入れるような高校に進むべきだろう。
分かっているけれど、どうしてもまだこの町を出るという選択は出来ない。
そんな事を思いながら日々を過ごしていると、あっという間に時は流れた。
決断しなければならない。
「ユキくんは、この町を出るの?」
「さあ、どうでしょう」
「そっかあ、寂しくなるなぁ」
「僕は出るだなんて一言も言っていませんけど。須沙野さんは出て行ってほしいんですか?」
「ユキくんいなくなったら、ここで働くのきつそうだなぁ~とか思うし。
やっぱりユキくんいると癒されるし、いなくなってほしくないよ」
須沙野さんは寂しそうに笑う。
太陽みたいに眩しい笑顔が好きだった。
手を伸ばしても届かないって思っていたけれど、あの笑顔に僕は焦がれていた。
「…気になる人がいて、この町から出て行くということが考えられません」
「そっか、そっか。ユキくんもお年頃だもんね~、かわいいなぁ」
ふと、彼女の手が動いた。
僕の頭に伸ばそうとしたその手は動きをとめ、空を掴むだけだった。
「…はぁ、もういいです。須沙野さん、玄関前の掃除お願いできますか」
「うん、了解」
須沙野さんは何事もなかったように笑った。
僕の気になる人が誰だかなんて興味ないんでしょうね。
この二年で背だって伸びた。須沙野さんと並ぶくらいには伸びた。
それでもまだ僕は彼女にとって意識してもらえるような男になっていない。
ため息をついた僕を見て、須沙野さんが少し笑ったことを僕はまだ気付いてない。