彼女が傍にいてくれるなら、何もいらない。
そんな事を、俺みたいな人間が思うようになる日が来るとは思わなかった。
「先生、」
「市香ちゃん、身体の調子はどう?」
「大丈夫です」
部屋に入ると、市香ちゃんが身体を起こそうと動く。
それを制して、そっとベッドに寝かせた。
「先生大丈夫ですよ、起きます。寝てばかりじゃ身体に悪いですもんね」
「…休むことも大事だよ」
「充分休んでますよ」
市香ちゃんは何も覚えていない。
何も知らないから、こうやってまだ俺に微笑んでくれる。
記憶を取り戻すまで、傍にいよう。
そんな制限つきの幸せ。
それは俺が一方的に幸福なだけだ。
本当は断罪されなければならないのに、俺はまだ言い訳をして君の傍にいる。
「こないだ先生が持ってきてくれた猫のさんぽっていう本見ました。
すっごく可愛かったです!」
いつかの日、彼女と一緒に見た猫たちを思い出す。
番号で猫たちを呼ぶ俺を見て、市香ちゃんは驚いていた。
名前なんて意味のないものだと、おもっていた。
14番と呼ばれ続けた俺と、白石景之と呼ばれた俺は何が違うんだろう。
記憶をなくした市香ちゃんを見ていると、ふと思うことがある。
彼女は全てをなくしたけど彼女だ。
彼女が彼女である証は、きっとその魂だ。
じゃあ、俺が俺である証は…なんだろう
「市香ちゃんは猫好き?」
「可愛いですよね、好きです」
「俺も好き」
「-っ…」
俺の言葉に市香ちゃんはなぜか頬を赤らめた。
俺が首をかしげると、本を見開いて俺の顔面に押し付けてくる。
「痛いよ、市香ちゃん」
「あっ!ごめんなさい!でも、いつか先生と一緒に猫、見たいですね」
「うん…そうだね」
俺が俺という人間に成れたのは目の前の愛する人のおかげだ。
人形だった俺に魂を与えたのは、この子だけだ。
戸惑いながらも、俺に歩み寄り、しがみついてくれた。
手を伸ばせば、触れられる。
「先生?」
そっと頬に触れると、大人しくそれを受け入れてくれる。
制限時間つきの幸福。
この手が、彼女に触れることはもうすぐなくなる。
本当は今だって触れてはいけない。
「もうすぐだね」
「なにがですか?」
「ううん、なんでもない」
君の人生に、暗い影を落とさないことだけを願う俺をどうか許して。